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ARTRAY

アート鑑賞ナビゲーター藤田令伊のブログ形式のメディアです。
展覧会レビュー、アート鑑賞のヒント、アートニュースなどアートに関する
effectiveな情報を発信しています。アート以外についてもときどき書きます。
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「作品」と「商品」
アートを考える

横浜トリエンナーレが始まった。今回はアーティスティック・ディレクターに森村泰昌氏を迎え、横浜市は背水の陣を敷いた感がある。過日、ある雑誌の仕事でインタビューした際、氏は「作品」と「商品」ということをいっていた。


「作品」と「商品」とは、消費者のニーズに応えるべくつくられ、より多くの販売が狙われるのが「商品」、必ずしもニーズに応えるものではなく、量が多ければよいとするものではないのが「作品」ということだ。今回、横浜トリエンナーレをつくり込んでいくにあたって、森村氏は「『商品』ではなく『作品』にしたい」と語っていた。


「商品」と「作品」について、ちょっと対比的に考えてみよう。「商品」は川下志向、「作品」は川上志向である。「商品」は消費者ニーズが主体となるから、作り手の思惑より買い手の意向が重視される。それに対して「作品」のほうは、消費者の意向よりも作り手の意思が色濃くなる。「商品」はそのとき即時的に求められるが、「作品」はそのときにはピンとこなくても、あとになって価値が見出される場合がある。


「商品」はより多くのニーズを満たそうとするためマジョリティーの志向を反映するが、「作品」は必ずしもマジョリティーの志向には沿わない。「商品」にとって第一義となるのは「量」だが、「作品」にとっては「質」が重要となる。「商品」はニーズを巧みに捉えるセンスが求められるが、「作品」はそれを通して何がいいたいのかという志が求められる。


「商品」は消費者の嗜好に応えるため“媚びる”傾向がついて回るのに対して、「作品」は周りの思惑が目に入らない独立独歩の性格をまといがちだ。「商品」は“流れ”に乗っていることが必要だが、「作品」はときにあえて“流れ”に逆らうこともある。「商品」は集団的になるが、「作品」は個人的になる。「商品」は受動的だが、「作品」は主体的である。「商品」は人々の好みや選考を汲み取ろうとするが、「作品」は人々に思想や主張、メッセージを発する。「商品」は感覚的で、「作品」は思考的といえるかもしれない。また、ギャラリーは「商品」志向、美術館は「作品」志向ともいえるかもしれない。ギャラリーは売れてナンボだし、ある美術館の館長は「うちは媚びたくない」と自負を見せていた。


と、「商品」と「作品」の違いについていろいろ考えてみた。「商品」は商業的で、「作品」は芸術的だから、アートは「作品」の世界に属するものと思われる。そもそも、アート「作品」というぐらいだし。しかし、100パーセントそうとはいい切れない。アート「作品」といえども、人々に見てもらわないといけないし、作者にとっては引き合いがあったり、売れてくれなくては生活が成り立たない。「作品」ではあっても「商品」的でもなければならないのである。


つまり、ここまで「商品」と「作品」を単純に対比的に捉えたが、現実には100パーセント「商品」、あるいは100パーセント「作品」というものは存在しない。どれも、ある程度の「商品」性と「作品」性を併せ持っているのであり、端的にいえば、その割合加減の問題でしかない。


「商品」と「作品」の問題は複雑な問題提起も起こしうる。いま、美術館は「作品」志向だといった。おおむね、その見方は肯定されるだろう。美術館は「商品」ではなく「作品」を扱うところであり、売れそうかどうかという視点ではなく、より価値があると思われるものを私たちに提供してくれるところだと見なされているからだ。先ほどの館長の弁にあるように、美術館の人たち自身もまずはそう考えていると思われる。「うちは高値がつきそうなものをそろえているんですよ」という美術館はあまりないだろう。


ところが、美術館が展覧会の成否をどのような基準で判断しているかというと、どこもほぼ例外なく展覧会へきた「観客数」としている実情がある。観客数とは「量」の問題である。どれくらい感銘深かったかといった「質」の問題ではない。今回のヨコトリでも、あるスタッフは「成否の判断基準は来場者数です」とはっきりいっていた。つまり、「作品」的なものを求めて日々活動しているにもかかわらず、美術館の活動の評価基準はきわめて「商品」的になっているということだ。ねじれてしまっている。しかも、このこと自体あまり自覚されていないふしがある。


アーティストの側にもややこしい話がある。作品づくりにあたって、アーティストは何を求めてやっているのか。あるいは、やっていけばよいのか。ある著名アーティストがまだ無名のころ、その人物は「作品」度がきわめて高いモノをつくろうとしていた。いくらで売れるとか、どれくらいたくさんの人が見てくれるかといったことより、自分の問題意識を自分なりにかたちづくることにもっぱら努めていた。そして、その人がつくったモノは賞に選ばれ、高く評価され、そして大変な高値で売れた。その人は一躍、著名アーティストの仲間入りを果たした。ところが、その後、そのアーティストは伸び悩んだ。最初につくったモノの二番煎じみたいなモノばかりをつくり鳴かず飛ばずとなり、いまではいささか忘れられた感がある。その人は「作品」をつくったつもりが「商品」として売れ、こんどは「商品」をつくろうとして売れなかった、ということになる。


よく知られるように、村上隆氏は最初から「商品」を狙う戦略に出た。アメリカのギャラリーで高く売れ、見事にその戦略は奏功した。公言して憚らないように、村上氏はアート「商品」をつくったのである。ところが、不思議なことに、村上氏は「商品」をつくったつもりなのに、あちこちの美術館から引き合いが出たのである。そして、そうした美術館では「作品」として評価され、紹介された。かくして村上氏のつくったモノは、「商品」が「作品」をもたらしたということになる。


エッフェル塔をつくったギュスターヴ・エッフェルは、エッフェル塔が完成したとき「美しい塔になりましたね」と人々から評されて驚いたそうである。彼は美しい「作品」をつくったつもりなど毛頭なく、鉄という素材を十二分に生かした「商品」をつくっただけのつもりだった。


「商品」を狙って「作品」と評価されたり、「作品」をつくるつもりで「商品」になったり、「作品」と「商品」の関係は一筋縄にはいかない。かつて山口百恵がヒットを連発していた時代、彼女のプロデュースを担っていた酒井政利氏は「ああいうのはマジック的な化学反応としかいいようがない」と語っている。つまり、「商品」としてヒットを狙うばかりではダメだし、「作品」性を重視するだけでも無理だというのだ。酒井氏の言を借りれば、人智を超えた境地というのだ。


「作品」と「商品」の問題は難しい。アートの場合、「商品」狙いが強すぎると「あざとい」「節操がない」と感じられるだろうし、「作品」志向だけでは意味不明となりかねない。自分は「作品」をつくるのだという気概がなければ人の心を動かすことはないだろうし、「商品」性がまったく理解できなければ、永遠にピント外れなことを繰り返すことになろう。ヨコトリを「作品にしたい」と語っていた森村氏にしても、程度はどうあれ「商品」を意識している部分がないわけではないはずである。


「作品」と「商品」の問題は、純粋に「作品」であることをよしとして、「商品」を否定するばかりでは始まらない。それが現実である。かくいう私自身、この「ARTRAY」のコンテンツをつくっていくのに、「作品」的なものと「商品」的なものの兼ね合いを常に気にしているのが実際だ。「作品」と「商品」の絶妙の“配合具合”を見出し、酒井氏のいう「マジック的な化学反応」に恵まれた者だけが、高く評価され、引き合いの多いアーティストの栄光に浴することができるのだろう。いまの若手アーティストは総じて「売れ線」狙いが多く、少々「商品」のほうに傾きすぎている気がする。