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ARTRAY

アート鑑賞ナビゲーター藤田令伊のブログ形式のメディアです。
展覧会レビュー、アート鑑賞のヒント、アートニュースなどアートに関する
effectiveな情報を発信しています。アート以外についてもときどき書きます。
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フェルメール 《デルフト眺望》
私的作品鑑賞
DSCF6685.jpg
1659〜60 マウリッツハイス美術館

この絵との出会いは、私にとって衝撃的だった。ハーグのマウリッツハイス美術館で実物を初めて見たとき、少しオーバーにいえば、私は雷撃に打たれたようなショックを覚えた。もちろん、本作のことは画集や図録でよく知っていた。だが、印刷物を見ていた限り、私はそれほど特別な絵とは思っていなかった。決して悪い絵ではないのだろうが、そこまでみなが褒めちぎるほどの作品なのだろうかと、むしろ懐疑的であったといってさえよかった。そのときオランダを訪れた主たる目的も《牛乳を注ぐ女》のほうで、《デルフト眺望》はいわばついでのようなものだった。


ところが、美術館の小ぢんまりとした展示室で本作と対面した瞬間、私はほとんど凍りついてしまった。実物には印刷物とは比べものにならないインパクトがあった。脳天をぶん殴られたような感覚。茫然と立ち尽くすなか、プルーストがやられたのはこれだったかと初めて理解した。絵を見てそんなふうになったのは、いままでのところ、このときしかない。《牛乳を注ぐ女》を見ても、こうはならなかった。この絵がベタボメされる理由が私にもようやくわかったのだった。


DSCF6681.jpg
マウリッツハイス美術館


この強烈なインパクトは、いったいどこから来たのだろうか。まず単純な話だが、想像していたよりずっと大きい絵だったということがある。96.5cm×115.7cmというスペックは、数字だけではわからない力をそなえていた。美術館の壁にかかっていると窓のようで、近づけば視野を圧するものがあった。小ぶりなものが多いフェルメール作品にあっては異例の存在感で、この大きさが迫力に寄与している部分は決して小さくないと思う。


それから、瑞々しさ。350年前に描かれたとはとても思われない瑞々しさが「生」を見ているという印象をなおさら増幅した。そして、本作独特の特異な性格がある。もしかしたら私だけかもしれないが、この絵には「大らかなのに引き締まっている」とでもいう複雑な感じを受けるのだ。描かれている風景自体は空が大きく広がり、川がゆったり流れている伸びやかなものにもかかわらず、視印象は案外堅固なのである。つまり、矛盾した性格が同居しており、それが独特の力をもたらしているように思う。


といった要因が相まって、絵が目に飛び込んできたときの強いインパクトに結実した気がする。よく、実物と複製は違うというが、このときほどそれを痛感したことはない。やはり実物を見ることは大事なのだと思わされた。もっとも、本作のように外国に所蔵されている作品などは実物を見るのが容易ではないのだが。


予想外の強烈な印象に、私は画家が実際に描いた場所へも行ってみたくなった。本作が描かれたデルフトは、マウリッツハイス美術館のあるハーグからは電車で15分ほどと近い。私はデルフトへも足を伸ばすことにした。デルフト駅から線路沿いに南へ歩くとほどなくスヒー川にぶつかり、少し東へ回り込めば、まさしくフェルメールが《デルフト眺望》を描いたその場所に出る。↓がその場所の写真である。


DSCF6743_360.jpg


いまでも絵と同じように川が流れており、新教会の塔も見える。まさにこの場所にフェルメールも立ってスケッチしたのかと思えば、にわかにフェルメールが実在した人間としてリアルに感じられた。しかし、同時に違和感も覚えた。それは、絵で見るほどの「遥かな感じ」がしないことだった。私の目にはごくふつうの街の風景としか見えず、《デルフト眺望》に見るような情感は感じられなかった(写真を見て、あなたはどう感じるだろうか?)。一瞬、場所を間違えたのかと戸惑ったが、そういうわけでもなかった。


《デルフト眺望》には絵の左下に何人かの人物が描かれているが、それとだいたい同じ位置に人を入れて撮ると、こんなふうになる。こうすると、私の感じた違和感がより伝わるのではないだろうか。


DSCF6745_360.jpg


このように、実際には絵で描かれているほど人物が小さく見えることはない。フェルメールはこの場所にあった家の2階で制作したといわれているが、そのことを勘案してもフェルメールの人物の描き方は小さすぎるように思われる。川幅も実際は絵から受ける印象よりずっと狭く感じる。何かにつけて実景は「ふつう」なのだった。絵にはフェルメールによる“脚色”がうかがわれた。


脚色された印象がどうやって「つくられている」かと考えると、それは小さく描かれた人物が鍵を大きな握っているように私には思われる。ためしに《デルフト眺望》から人物を消去してみると↓のようになる。


DSCF6685-none.jpg


どうだろう、案外実景に近い、ふつうの印象に変わると感じないだろうか。もし、ここに上の写真のように自転車に乗った少年を置いたとしたらと想像すると、にわかに川幅も狭く感じられるようになり、景色は意外なほど平凡な佇まいへと様変わりするように私には見える。《デルフト眺望》は実景からアレンジして描かれているとはすでに指摘されていることだが、一般には横方向へ街が引き伸ばされて(あるいは垂直方向が圧縮されて)描かれているといわれている。たしかにそれもあるだろうが、私にはそれにもまして人物の描き方がポイントであるように思われる。もしかしたら、人物はあとで加筆されたのかもしれない。フェルメールは、人物を実際より小さく描くというほんのわずかな作為によって劇的といってもいい効果を上げることに成功しているように見える。


フェルメールは、なぜ実景よりも「遥かな感じ」を絵に与えたのだろうか。私は、そこにこの絵の勘所が潜んでいると思う。端的にいえば、フェルメールの愛郷心。第三者が見れば、何ということのない景観でも、愛着をもって見ると、そこには素晴らしく感動的なシーナリーが展開するということがある。《デルフト眺望》も、そのようなフェルメールの心の眼に映った風景なのではないだろうか。


《デルフト眺望》は純粋な風景画というよりは心象風景画とでも呼ぶべきものだと私は思う。空を見ると、一番手前には雨雲と見える黒い雲があり、向こうへ行くにつれてだんだん軽い雲になっている。陽光も射している。雲がこちらからあちらへ流れているのか、それとも、あちらからこちらへ流れているのか判然としないが、私には雨雲が通り過ぎたあと、空が明るくなりつつあるところのように見える。つまり、デルフトの明るい未来を信じているフェルメールの気持ちが表れていると見る。


フェルメールの故郷へ寄せる視線に思い至って、私はこの絵のほんとうの魅力に触れられた気がした。生涯、ほとんどデルフトを出ることがなかったフェルメール。彼は愛にも似た想いを故郷デルフトに抱いていたのではなかったろうか。そして、そのこともまた、見る者に強い印象をもたらす理由なのかもしれないと、この絵を見るたびに夢想するのである。