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ARTRAY

アート鑑賞ナビゲーター藤田令伊のブログ形式のメディアです。
展覧会レビュー、アート鑑賞のヒント、アートニュースなどアートに関する
effectiveな情報を発信しています。アート以外についてもときどき書きます。
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「物語化」して見る
鑑賞のヒント
絵画なら絵の中では、「いま、どんなドラマが進行している最中なのか」というふうに見たことがあるだろうか。つまり、作品を「物語化」して見るわけだが、この方法も鑑賞のレベルアップに大いに寄与してくれる。


たとえば、ちょっと不思議な↓の絵を取り上げてみよう。ここでは何が起こっているとお思いになるだろうか?


botticelli_prado1.jpg


絵を一通り見てみよう。木々が立ち並ぶ林のなか、一人の裸の女性が逃げ惑っており、その女性のお尻になんと白い犬がかぶりついている。かまれて痛いのか、女性は悲鳴を上げている。女性と犬のうしろからは馬に乗った男が追いかけてきているが、これも剣をふりかざして尋常ではない様子である。彼らの行く手には二人の青年がいて、右側の青年は木を槍のように構えて突き出そうとしている。背後には湖か入り江か水面が広がり、左端にはテントらしきものがチラッと見えている、という内容である。何とも変わった絵である。


ある講座で受講生の方々にこの絵を見ていただき、どういうシーンと思うかを自由に語ってもらった。最初にある人が、これは女性が懲罰を受けている場面だと思うとおっしゃった。女性は何かの罪を犯し、罰として苦しみを与えられているのだろうということだった。続いて、女性は賊に襲われているところではないかという声が出た。女性や左の男性たちは自然豊かなこの場所へキャンプにきた人たちで、女性が裸なのはうしろの湖で泳いでいたから。そこへ、このあたりを根城にしている賊が襲いかかった場面ではないかと。


それを皮切りにさまざまな意見が交わされた。女性が罰を受けているにしてはシチュエーションが変だという指摘があった。女性は裸にされ、犬に噛みつかれている。いくら刑罰だとしても、それはおかしいというわけだ。一方、賊に襲われているというのも腑に落ちないという意見が出た。これまた犬に襲わせるというのは不自然だというのだ。たしかに、どちらの指摘も当たっているように思われる。この場面、刑罰にしては奇妙だし、賊の襲来というのも違和感が残る。どうやら、ここで起こっているのはもっと別のことらしい。


そのうち別の見方が提案された。馬に乗った男性をよく見ると、この男は女性にではなく犬に向かって剣をふりかざしているように見える、という指摘であった。いわれてみると、これまたたしかに、馬上の男の視線は女性というよりは犬に向けられているようでもある。また、赤いマントをひるがえしたいでたちは高貴といってもよさそうな感じで、賊というふうには見えない。それらのことから、馬の男は女性に刑罰を与えたり襲ったりしているのではなく、女性が野犬に噛みつかれているのを助けようとしているのではないか、という新しい見方がなされた。それなら白馬の騎士が女性を救おうとしている場面ということになり、ヨーロッパ伝統の騎士道精神と合致することになる、意味合いがまったく変わってくる、としばし盛り上がった。


はたして「正解」やいかに、といったところだが、たとえ「正解」には至らずとも、このように物語化して見ることにはいくつかの意義が認められる。まず、観察がていねいになるという利点がある。最初は女性が責められているという点にしか眼がいっていなかったが、次第に、女性のありさまと背景が結びつけられ、女性は湖で泳いでいたのではないかと思いつかれたり、やはり背景のテントからキャンプしていたのではないかと推測されたように視野の広がりが見出せる。また、馬上の男性の服装や視線の方向にも関心が向けられるようになった。このように、どういうドラマなのかと考えるために観察が細かくなっている。


次に、ひとつの見方にとどまらず、さまざまな見方が試行錯誤されていることが挙げられる。女性は刑罰を与えられているという見方から始まり、賊に襲われているところ、さらには野犬に襲われたところ助けられようとしている、というふうにいくつもの見方が提示されている。これはすなわち、知らず知らずのうちに「見方の可能性」が追究されているということにほかならない。ひとつの固定した見方ではなく、あらゆる見方が柔軟に探られ、鑑賞の幅と奥行きが広め深められている。


複数の見方は合理的な検討によって導き出されている点にも留意しておきたい。刑罰に犬が使われるのはおかしいとか、賊にしては立派すぎるというように、ひとつの見方の不合理な点があぶり出され、別の見方が考えられる。そして新しく提出された見方がさらに齟齬をきたしていないかどうか検証されている。こうした作業の反復は見方を「鋭く」しているということになるだろう。


そして、ここでなされている見方は、何よりも主体的であることが重要である。絵の場面はどういうドラマを物語っているのかと、それぞれ自分の眼でたしかめ、自分の頭で考えている。きわめて大切なポイントである。こういう見方は、初めから「正解」が説明され、それが固定観念になってしまったような場合には望み得ないものである。作品と自分との関係が活性化し、印象の刻み込まれ方がまったく違ってくる。


「正解」が説かれてそれで終わり、という見方は、「正しい」かもしれないが、鑑賞者にとってはさほど意味がない見方である。私たちが美術を鑑賞するのは学術研究のためではないのだから、正しい正しくないより「自分が見る」ということのほうが大切である。「間違って」いてもいいから、主体的に作品を見ることのほうがずっと意味がある。いくら「正しい」見方であっても自分の見方をしていなければ鑑賞体験としては意味がない。美術鑑賞は正しければよいというものではないのである。


このように「物語化」は、主体的で鋭い見方を促してくれる。興味を抱いた作品と出会ったなら、ぜひお試しになるとよいと思う。より爪を立てて作品を見ることに必ずや寄与してくれることだろう。


ちなみに、ここで例示した絵はボッティチェリの《ナスタジオ・デリ・オネスティの物語》という作品でプラド美術館の所蔵となっている。本来の物語はネットででも調べればすぐにわかると思うので、興味のある方はあとでお調べになるとよろしいかと。