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ARTRAY

アート鑑賞ナビゲーター藤田令伊のブログ形式のメディアです。
展覧会レビュー、アート鑑賞のヒント、アートニュースなどアートに関する
effectiveな情報を発信しています。アート以外についてもときどき書きます。
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意味生成
鑑賞のヒント
アート鑑賞は、学問的探究のためとかではなく、一般のアートファンが自分の愉しみのために見るものであれば、基本的にどんなあり方でもよいと私は考えている。見たまま感じるままでもいいと思うし、あえて小難しい理屈をひねくり回しながら見るのでもいい。要は、その人その人に応じた見方、愉しみ方でよいと考えている(それは、ただ単にそう思うだけではなく、れっきとした理由があるのだが)。


それでも、アート鑑賞にはすぐれたものとそうではないものがあるのは事実である。となると、「じゃあ、すぐれた鑑賞をするようにしましょう」という話になりがちで、よりすぐれた鑑賞が強迫的に求められることがある。もちろん、よりよいものを目指すのは決して悪いことではない。だが、よりすぐれた鑑賞がより愉しい鑑賞になるとは限らない。いくらすぐれていても、当人にとって愉しくなければ本末転倒である。なので、ここでも私は、よりすぐれた鑑賞を必ず目指さなければならないとまでは考えていない。以下は、その前提のうえでの話である。

さて、すぐれた鑑賞を強迫的に追求する必要はないのだけれど、すぐれた鑑賞ができるにこしたことはない。ということで、すぐれたアート鑑賞とはどういうものかを考えてみたい。答えは人によって違ってくるだろうが、私は「意味生成」がひとつのキーワードになると考えている。意味生成などというとちょっと堅苦しいが、要するに、アートを鑑賞することを通じて、何らかの意味が鑑賞者のなかに生み出されることだ。教育界でよく使われるテクニカルタームでもある。


鑑賞において意味生成を重視しているのは私だけではない。以前少し紹介した対話式美術鑑賞でも、やはり鑑賞の中核をなすのは意味生成だと考えられている。対話式美術鑑賞では、外から与えられる知識や情報より、鑑賞者自身のなかで自発的主体的に想起されるもののほうが重要視される。その点においては、私も対話式美術鑑賞と同じ考えである。


具体例をもとに説明してみよう。たとえば、モネの《印象、日の出》という絵について、「この作品は第1回印象派展に出品されたものである」とか「印象派という言葉のもとになった作品だ」ということを知っていることより、夜が明けたばかりの様子に思わず肌寒さを絵に感じ取るとか、小さな船がこちらへやってくる姿に自分の祖父が漁師だったことを思い出し、つい祖父の思い出とこの絵を結びつけてみるとか、あるいは、当時の他の絵と比べてきわめて粗いタッチで描かれていることを自分で発見するとかのほうが重要だということだ。


monet_impression_sunrise_450.jpg
モネ 《印象、日の出》 1873 マルモッタン美術館


つまり、外から得た知識にしたがって見るのではなく、自分自身で作品に何かを見つけたり感じたりすることが大切だとする考え方である。それがなされるとき、その人のなかでは何らかの意味生成が起こっている。


意味生成は、鑑賞者が主体的に作品を見ていなければ起こらない。いくら《印象、日の出》に関する知識を豊富に有していたとしても、それだけでは意味生成は発生しない。なぜなら、《印象、日の出》に関する知識は鑑賞者自身が見出したものではないから、つまり、鑑賞者は受動的だからである。


外からの入力によって受動的にしか得られていない知識や情報は、鑑賞者のなかで発展することはまずない。ただ単に「《印象、日の出》は第1回印象派展に出品された作品である」ということを暗記しているだけの話である。これはいわゆる「分節化された知識」で、そのことに関しては知っているが、それだけにとどまり、ほかのことには結びつかない。そこから応用や教訓が引き出されるといった汎用性は期待できないため、知識を暗記しているだけでは鑑賞としてはレベルが低い(というか、ほんとうはそもそも鑑賞になっていない)。それはアート鑑賞に限らず、あらゆる学びと照らし合わせて考えると納得できることだろう。


それに対して、自分のなかで何らかの意味生成がなされると、当人自身の創造的な鑑賞体験として経験が意義づけられ蓄積される。たとえそれがどんなものであっても、その人ならではのコンテキスト(文脈)に色づけられたものとなり、オリジナリティの強い、ほかの人では得られないものとなる。


メトロポリタン美術館では、以前「Connections」というプログラムが試行されたことがある。美術館のスタッフ(キュレーターとは限らない)一人ひとりが自館のコレクションのなかから「好きな作品」(「よい作品」ではない)を選び、それについて「個人的なストーリー」を語るというスタイルのものだ。

http://www.metmuseum.org/connections/

この試みは「アート鑑賞は、アートとのもっと個人的な出会いであってよい」という考え方にそって実施されたもので、スタッフたちが一種の“ひな形”を提示することによって新たな鑑賞教育のかたちが模索されたものだった。


こうした考え方において注目すべきは、生成した意味そのものに限らず、意味が生成したプロセスにも意義を見出す点だ。その人が作品からどんなふうに何かを汲み取ったのかが自覚的に認識され、別の鑑賞機会にも応用できるものが得られた場合(それが汎用性である)、その人の鑑賞の「引き出し」は増えることになる。すなわち、その人ならではの鑑賞ノウハウが構築され、蓄積されることになる。結果、その人は新たなアートの可能性に気づき、鑑賞の幅が広がることになる(それを促すためには、見たっきりにするのではなく、自分は何をどのように見出したのかを明らかにしておくことが望ましい)。これは暗記をもとにした鑑賞では望めないことである。


このような汎用性が得られることを認知心理学では「教訓帰納」といっている。教訓帰納を重視する場合、プロセスのほうがポイントなので、汲み取られたものそのものはどんなものであっても構わないといえば構わない。それよりも意味生成がなされやすいことのほうが肝要になる。意味生成は鑑賞者が主体的に作品を見ているときにしか起こらないから、作品に対して鑑賞者が自発的なスタンスであることが必要となってくる。冒頭、基本的にその人その人に応じた見方、愉しみ方でいいと書いたのはこのためである。


教訓帰納をも視野に入れるとき、鑑賞者に期待されるのはエレガントな感想よりも、素朴であっても当人ならではの向き合いのなかから出てきた言葉である。それが豊かにアウトプットされるものが、すぐれた鑑賞ということになるだろう。


と、理論的な背景も説明しておきたいと思っているうちに、何だか途中から論文みたいになってしまった。ご容赦願いたい。平たくいってしまえば、要は、自分の眼と心と脳みそで何かを見出すことがすぐれた鑑賞だということだ。そして、いろいろ書いてしまったが、大前提としては自分なりの愉しみを大切にすればよいのであって、必ずしもすぐれた鑑賞をしなければならないと強迫的にまで考える必要はないと私は思っている。すぐれた鑑賞を求めるのも、自発的主体的でなければ意味はないのだから。