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ARTRAY

アート鑑賞ナビゲーター藤田令伊のブログ形式のメディアです。
展覧会レビュー、アート鑑賞のヒント、アートニュースなどアートに関する
effectiveな情報を発信しています。アート以外についてもときどき書きます。
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佐村河内事件で考えること
アートを考える
佐村河内問題が引き続き揺れている。作曲を別人にしてもらっていただけではなく、耳が聞こえないというのもどうやらウソだったということで、今回の一件はダブルスキャンダルに発展している。


これまで多くの人々は、佐村河内氏がハンデキャップを負った人であり、被爆二世であるにもかかわらず、逆境をはねかえして誠実に生きていると思って、応援の意味も含めてCDを買ったりコンサートへ出かけたりしていたに違いない。ところが、そうでなかったというのなら、人間愛や同情心を逆手にとった卑劣な詐欺だったことになる。驚くのは、今日まで18年もの長きにわたって面の皮厚くもそれをやってきたということだ。もし今回、新垣隆氏が告白しなかったら、おそらく、この茶番はどこまでも続けられていたのだろう。


今回の事件はいろんな教訓を投げかけている。まず、私たちは何かを見る際、初めからバイアスがかかっている場合があり、そのときは評価がフェアになされないということが改めて浮き彫りになったと思う。佐村河内氏の音楽が今日(まで)の人気や地位を得られたのは、まさに氏が弱者だという理由によってであり、必ずしも音楽性そのものに因ったものではなかっただろう。本来、音楽そのものには弱者も強者もないはずだが、私たちには音楽を聴く前から「評価してあげよう」というバイアスが働いて「見る眼」(聴く耳?)が甘くなったものと思われる。


バイアスによって評価が不当になるのは何も佐村河内氏のケースに限ったことではない。ソチ五輪フリースタイルスキー女子モーグルで上村愛子選手が4位に終わったが、そのときも同様のメカニズムが作用したと限りなく疑われている。「モーグルの女王」といわれるアメリカのハナ・カーニー選手が決勝で致命的なミスを犯したにもかかわらず、高い得点が出て銅メダリストとなったのだ(カーニー選手でなければ、そのような点は出なかっただろうと私も思っている)。


女子フィギュアスケートでもあった。韓国のキム・ヨナ選手よりロシアのアデリナ・ソトニコワ選手のほうに高得点がつけられてソトニコワ選手が金メダルを獲得したことに対して、開催国ロシアの選手だという予断が働いたのではないか、と疑惑の眼差しが向けられている。フィギュアスケートはきわめて細かいエレメントに分けて採点されているが、所詮、一つひとつのエレメントに何点つけるかは主観が絡んでくるので、採点種目はどうしてもこういう話がついて回る。


バイアスが働いた評価によって、ほんとうは大したことではないことでも偉業とされたり、逆にほんとうはものすごいことでも右から左へ流されたりすることがある。アートでも著名なアーティストであれば何をしても拍手喝采が送られ、無名のアーティストであれば不当なほど軽く扱われるということが現実としてある。私たちは、いったい何を見ているのだろう、と立ち止まってしまうことがある。


あるいは、これまで「佐村河内さんの『交響曲 Hiroshima』は素晴らしい!」といっていた人は、ほんとうに自分自身の評価でそういっていたのか、という問題もある。じつは、みんながそういうから何となく自分もそういっていただけ、という人は決して少なくないのではないだろうか。つまり、主体的な評価ではなく、追随的な評価が佐村河内人気を支えていたのである。


一昔前、よく高度情報化社会ということがいわれた。しかし、いまやPCに匹敵するスマホやタブレットを一人ひとりが持ち歩く時代になり、もはや情報過多社会に突入している。情報過多のなかにあっては、到底すべての情報を渉猟することなどできないため、私たちはパラドキシカルなことに情報過少社会に置かれるのと似たような状況になっている。人々は情報の奔流を目の当たりにして、いたしかたがないので他者の意見をこれまでになく指針にするようになっている。昨今、あらゆるメディアで「ランキング」が隆盛しているのはそのためであろう。そして追随的評価が雪だるま式にさらなる追随的評価を膨らませる結果を生んでいる。


私の住んでいる街では毎年映画祭が開催されているが、賞に輝く作品は決まって他の映画祭でも賞を獲得した作品である。この街独自の評価軸は感じられず、結局、賞をもらった映画がさらに賞をもらう図式になっている。「メジャーなものがよりメジャー化する構造」である。市民の立場からいわせてもらうと、市の財政が苦しい折、このような主体性なき映画祭に多額の税金が投じられているのはまことに困った話で、いまのままならとっとと廃止にしてほしいと私は思っている。


追随的評価によってメジャーなものがよりメジャー化する図式は、これまたアートの世界でもいまやごく当たり前に見られるようになっている。昨今、「○○芸術祭」というのが大流行だが、見に行ってみると、どの芸術祭のアーティストも「お決まりのメンバー」がそろっている。あっちで見た人がこっちにきており、次はまた同じメンバーが別のところへと向かうという、まるで巡業みたいな滑稽なことになっている。


しかし、滑稽だけで話がすまないのは、そうして同じ人たちばかりがぐるぐる「使いまわされる」結果、アーティストたちは本来の力以上に評価されてしまっていることだ。そして、ひとたび追随的評価が新たな追随的評価を生み出すようになると、ごく限られた「いつもの人たち」だけに何度もお呼びがかかり、それ以外の人はさっぱりということになっている。ほんとうに評価されているというより、起用する側に主体的な眼がないため、世間の評判や実績が追随されているだけの話なのである。それが「あちこちでよく見るアーティスト」のかなりの部分の実情であろう。


佐村河内問題にせよ、わが街の映画祭にせよ、「○○芸術祭」にせよ、共通しているのは主体性の欠如である。周りの空気に合わせているだけだったり、伝聞情報をもとにしているだけだったり、前例に追随しているだけというのがまかり通りすぎている。音楽も映画もアートも芸術だが、芸術とは本来、一人ひとりの創造性や主体性を育むもののはずである。なのに、芸術の世界でこれほど「追随」が大隆盛しているのは芸術の自殺というほかない。そもそも、芸術で「成功モデル」などという言い方がなされること自体がおかしいという気がしないだろうか。関係者はそのことを反省的に自覚する必要があるのではないだろうか。


ところで、佐村河内氏の記事を組もうとして氏を取材したある雑誌(『AERA』)が掲載をとりやめたという話がある。それは、取材しているときに「この人は、ほんとうは耳が聞こえているのではないか?」と疑念を抱いたからで、もしそうであれば詐欺まがいに加担することになるのでボツにしたというのである。いまにあっては、卓見というべきなのだろう。それに比べると、長時間行動をともにしながら「NHKスペシャル 魂の旋律〜音を失った作曲家」を何の疑いもなく放送したNHKの眼は、どうしようもなく節穴だったといわれてもしかたがない(いや、スタッフの一部は疑惑を覚えていたが、にもかかわらず放送したという未確認情報もある。だとしたら、それはそれで問題だが)。


佐村河内問題は、私たちに「いい加減、主体性を取り戻したら?」と強烈なメッセージを突きつけている。