CALENDAR
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 
<< July 2020 >>
PROFILE
LINKS
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
amazon1
amazon2
amazon3
amazon4
ARCHIVES
MOBILE
qrcode
OTHERS

ARTRAY

アート鑑賞ナビゲーター藤田令伊のブログ形式のメディアです。
展覧会レビュー、アート鑑賞のヒント、アートニュースなどアートに関する
effectiveな情報を発信しています。アート以外についてもときどき書きます。
<< アンディ・ウォーホル展 永遠の15分 | main | 検索キーワード >>
アート鑑賞と知識 2
鑑賞のヒント
「アート鑑賞と知識1」では、アート鑑賞において知識はなくても別に構わないが、さりとてアート作品から知識を完全に排除するのは難しい現実があるため、知識を否定しているだけでは実効的なアート鑑賞の手引きにはならないことを述べた。また、知識がなければ事実上、鑑賞のしようがない作品があることも指摘した。アート鑑賞における知識の問題は、もう少していねいに掘り下げる必要があるように思われる。


 
知識についてはこんなこともあると思う。↓はゴヤの《ボルドーのミルク売り娘》という絵である。ひとりの少女が描かれているだけで、見たところ特別なことは何もないように見える。題名からして、この少女はミルク売りの娘なのだろうと察しがつくが、それだけといえばそれだけである。実際、あなたはこの絵をご覧になって、どのような感想を抱くだろうか?


goya_milkmaid.jpg


初めてこの絵を見たとき、私は特段の印象を覚えなかった。悪い絵だとは思わなかったが、かといって、抜きん出た何かを感じるといったこともなかった。ゴヤには申し訳ないが、取り立ててどうこういうような作品とは感じなかったというのが正直なところであった(あなたはどんな感想を持っただろうか?)。


ところが、本作に関する知識を得ることによって、私の見方には大きな変化が生じた。じつは、この絵はゴヤの絶筆である。あの波瀾万丈の人生を生きたゴヤが、晩年、ボルドーへと亡命し、そこで描いたものだ。年老いたゴヤのもとへ毎朝ミルクを運んでくる少女が主題になっている。もはや耳も聞こえず、祖国スペインにも絶望を抱くしかなかったゴヤにとって、彼女の存在はひとときの安寧をもたらしたようだ。ここにはもはやあの「黒い絵」のおどろおどろしさも、「戦争の惨禍」の怒りもない。静かな画面のなかに少女の無垢な輝きだけが息づいている。


という絵にまつわる事情を知ったことで、人生の最後の最後になってついにゴヤにも心安げる時間が訪れたのか、と私は感慨深いものを覚えた。さりげなく描かれただけの一枚。だが、この絵に飾り気がなければないほど、素朴なままにいることができたゴヤの心境が汲み取れる気がして、感無量になるものがあった。ゴヤの最晩年が平穏な営みだったのだとわかって、しみじみと心にしみてくるものを私は覚えたのである。


こうした見方は、絵に関する知識なくしてはすることができない。もし、私がこの絵にまつわる事情を知らなかったら、こんなふうに見ることはできなかった。アート鑑賞において知識を否定するならば、このような見方はいけないことということになる。しかし、私にはこういう見方がそんなにいけないこと、悪いことだとはどうしても思えないのである。


あるいは、それまで何も知らなかった事柄について知識を得ることは喜びにつながる面もある。たとえば、私は最近古代史に興味を覚えており、これまで知らなかったことを知るようになっている。自分のなかに古代史の知識が蓄積されていくことが面白く、興味がさらに増していくさまが身をもって感じられる。アートに関心を覚えた人も同じはずである。近年、社会人大学や生涯学習が大変盛んだが、それは理由のないことではないのである。知識を否定すれば、「知る喜び」は許されないことになってしまう。


さらにいえば、巷に流通しているアートの本は、中身がほとんどアートについての知識である。知識が許されないとすると、これもいけないということになり、アートファンはアートの本を読んではいけないというパラドキシカルなことになる。


というように、知識を否定することは現実的にはできないし、否定する必要もないと私は考える。とはいえ、知識には先入観を与えたり、見方に制約をもたらしたりするといった弊害があるのも事実である。となると、考えるべきは「知識とどうつき合うか」ということだと私は思う。


知識とのつき合い方で大切なのは、「鑑賞の主役はあくまでも自分であり、知識は鑑賞をサポートするもの」という明確な認識を持つことだと私は考えている。ときどき、美術館などで絵よりも先に絵の横に掲示されている作者名を見る人がいる。そういう人は知識に従属した見方になっている恐れがある。わけのわからない絵でも作者がピカソであれば感心し、無名の画家ならば捨て置くといった態度では、作品を見ているというより作者名を見ていることになる。


あるいは、本や雑誌に書いてあったことを確認し、それで満足している場合もある。実物の《モナ・リザ》を目の当たりにして、「なるほど、たしかに輪郭線がなく、ぼんやりとした描き方で描かれているな。これがスフマートだな」と見ているだけでは、知識を再確認しているにすぎない。鑑賞体験としては、さほどの意味はない。


私たちがアートを鑑賞するにあたっては、「自分が見るのだ」という主体性が重要となる。知識は所詮、ほかの誰かが説いている情報である。知識が豊富であれば、すごいアート通だなと感心させられてしまいがちだが、知識に沿った見方をしているだけでは他人の見方をなぞっているにすぎない。知識はあくまでも参考情報、サポート情報と心得ておきたい。また、メディアが伝える知識には間違いも決して少なくないことにも気をつけたい。


知識の位置づけは、アナロジーで頭に入れておくとわかりやすいと思う。私は「知識は部下である」と考えることを推奨している。部下であれば、どれほど役に立ち有能であっても、どこまでいっても上司は自分である。最終的な意思決定は上司たる自分の仕事だ。部下に最終決定までさせる上司はいないだろう。


つまり、作品の良し悪しの評価や解釈、味わいは、部下である知識の領分ではなく、上司である自分の領分なのである。本や雑誌に「名作」と書いてあっても、どうしてもそう感じなければ、その作品はあなたにとっては凡作であり、逆に、メディアではノーマークでも心惹かれる作品があれば、それはあなたにとっての「名作」である。決して知識に呑み込まれず、うまく「使いこなす」ことが肝要だ。


「知識は部下」と考えて、主体性を失わずに鑑賞の質的向上が図れればいうことない。