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ARTRAY

アート鑑賞ナビゲーター藤田令伊のブログ形式のメディアです。
展覧会レビュー、アート鑑賞のヒント、アートニュースなどアートに関する
effectiveな情報を発信しています。アート以外についてもときどき書きます。
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アート鑑賞と知識 1
鑑賞のヒント
私たちはふだん、美術館やギャラリー等でさまざまなアートを見て愉しんでいるわけだが、どういう見方をすればより好ましいのか? と考えたことはないだろうか。つまり、望ましいアート鑑賞とはどういうものか、というテーマだ。このテーマを考えるとき、必ずぶつかる壁のひとつが「知識」の問題である。アート鑑賞において知識はあったほうがいいのか、それともないほうがいいのか。この問題については以前にも書いたことがあるが、「ARTRAY」を立ち上げてからはまだ触れていなかったので改めて取り上げておきたい。


 
アート鑑賞における知識の問題は過去まったく議論されていないわけではない。昭和初期に活躍した評論家の小林秀雄はアート鑑賞に知識は不要だといっている。氏は著書『美を求める心』のなかで次のように語っている。


「絵や音楽を、解るとか解らないとかいうのが、もう間違っているのです。絵は、眼で見て楽しむものだ。音楽は耳で聴いて感動するものだ。頭で解るとか解らないとか言うべき筋のものではありますまい」


そして、その続きで「言葉は眼の邪魔になるものです」ととどめを刺す。小林秀雄は「言葉」という語を使っているが「知識」と読み替えても差し支えないだろう。つまり、アート鑑賞に知識は要らないというだけではなく、あると「邪魔」になるから、積極的にないほうがよいというわけだ。


これに対して、まったく正反対の意見もある。ある大学の教授は講義でこう説いていた。「美術鑑賞とは個人個人が自分の好き勝手に見るものではない。その作品は何を主張しているかを正しく読み取り、歴史的社会的な文脈に沿って理解されなければならない」。そして、そのためには研鑽を重ねて知識を豊かに獲得しなければならないという。寓意を解釈する見方や社会との関係を読み解く見方といったものがこれに当てはまるだろう。


「知識はいらない」というほうで紹介した小林秀雄も、じつは別のところでは知識を持って見ることを推奨している(けっこういい加減だ。笑)。知識ひとつをめぐっても、このように相反する考え方があり、それどころか人によってはときどきに意見が変わったりするので、どちらがよいかにわかには判断がつかないのが実情である。


現在、アート鑑賞について一種の世界標準みたいになっているものにVTCというのがある。VTCとは「Visual Thinking Curriculum」の頭文字を取ったもので、1980年代にニューヨーク近代美術館で開発された美術鑑賞プログラムである。少人数のグループで作品を見、トーカーといわれるガイド役がみんなの見方を引き出し、あるいは意見交換を通じて鑑賞を深めることを目的にしている。また、日本ではVTCを参照しながら対話式美術鑑賞というものが考え出されている。やはり、ほかの人とのコミュニケーションが鍵となっており、対話式美術鑑賞をギャラリーガイドに採用する美術館が現在増えつつある。


VTCと対話式美術鑑賞が知識に対してどのようなスタンスをとっているかというと、どちらも基本的に知識を否定している。知識があるとそれが先入観となって自由な鑑賞が阻害されてしまうから、あるいは、知識を学ぶこと自体が自己目的化して、作品を見ても知識を確認するにすぎなくなるからといった理由によってだ。関係者のなかには「知識なんか百害あって一利なし」とまでいう人もいる。


VTCや対話式美術鑑賞が知識に対して抱く懸念はたしかに存在しており、一理ある考え方として受け止めることができる。知識とは、自分ではない他の誰かが発信したものだから、知識に縛られていては主体的な鑑賞をしていることにはならない。また、小林秀雄のいうように、知識的な見方がアート鑑賞のすべてだとも思われない。ひたすら作品に何かをしみじみと感じる、という見方があっても全然おかしくない。アート鑑賞に知識は絶対不可欠のものではたしかにない。


だがその一方、知識を否定すればそれで問題が解決するとも限らない。↓の作品を見ていただきたいのだが、これは美術史上重要な作品として高く評価されているものである。


duchamp-fontain.jpg


これを何の予備知識もなしに鑑賞することが、はたしてできるだろうか。女性の方にはよくわからないかもしれないが、じつは、これは男性用小便器が方向を変えて床に置かれただけのものである。もし、この作品にまつわる知識をまったく持たず、ただこれだけが目の前にポンと提示されたら、アート作品としてどう見られるだろうか。なぜ、これが美術史上のメルクマールとして高く評価されるのかほんとうに理解されるだろうか。私は無理だと思う。


kandinsky1.jpg


あるいは、こちらの絵はどうだろう? 児戯とも見える描き方ながら、本作もまたきわめて評価の高い作品となっている。こうしたものを作品にまつわる知識なしで「素晴らしい絵だ!」と鑑賞し評価することがはたして可能なのだろうか。やはり私には難しく思われる。つまり、少なくともこれらの作品においては、事実上、知識なしでの鑑賞は困難と考えられる。これらを高く評価する専門家たちも知識をもとに語っているはずだ。


この事実は、鑑賞から知識を排除することがいかに難しいかを示唆している。上に挙げたような作品が純粋に作品そのものだけで見られ、評価されているとは思われない。作品が生み出されてきた文脈や作品の背景にある事情といったものを込みにして美術史に残る作品と位置づけられているのである。この現実を無視して「アート鑑賞から知識は排除すべし」といくら叫んでも、あまり意味はないように私には思える。現実問題として知識の排除は難しいのだから、もっと別の視点から考える必要があるかと思う。


また、知識を基本的に否定しているVTCや対話式美術鑑賞も、もともとそれらは子どもの能力開発のために編み出されたものという事情がある。子どもたちの感受性の育成や主体性の涵養、ロジカルなものの考え方の教導といった目的に沿ってつくられたもので、それには知識は別に必要なかったのである。元来そのような性質のものをそのまま大人のアート鑑賞に厳密に当てはめる必要はないと私は考えている。知識はもっと現実的、実践的に扱いを考えなければならない。