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ARTRAY

アート鑑賞ナビゲーター藤田令伊のブログ形式のメディアです。
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邪馬台国論争
奈良・古代

今日はまた古代史関係で。先日、纏向遺跡と箸墓古墳についてどちらも特異な存在だということをご紹介した。そこで、にわかに高まっているのが邪馬台国論争である。箸墓古墳のところで触れたように、両者の特異性と推定年代から、纏向こそが邪馬台国で、箸墓こそが卑弥呼の墓ではないかという見方が盛り上がっているのだ。

 

邪馬台国論争は、佐賀県の吉野ヶ里遺跡が発見されて以来、もっぱら九州説が優勢だったのが、纏向遺跡の発掘が進むにつれて、こんどは畿内説が盛り返し、現在は考古学者の過半は畿内説を支持しているという。邪馬台国は「魏志倭人伝」に記述されている古代日本(倭国)のなかの国のひとつである。倭人伝には倭国と邪馬台国についてさまざまな情報が記されている。かつて倭国には「百余国」があったが、あるとき「倭国乱」が発生して「相攻伐すること歴年」という状況となり、このままではどうしようもないということで諸国は「一女子を共立して王と為」した。その「女子」が卑弥呼で、倭国は彼女の統治のもとで秩序を取り戻したとしている。


で、もっぱら問題の焦点になっているのは邪馬台国がどこにあったのかということで、周知の通り、主として九州説と畿内説が論じられている。九州説と畿内説のそれぞれの主張をちょっと紹介してみる。


(九州説)
・北部九州からは多くの鉄器が発掘されている
当時、鉄器は土器や銅器に比べて先進のツールで、それが畿内よりずっと多くの量が九州から発掘されている。鉄の質も九州出土のほうがよい。つまり、北部九州こそが古代日本の先進地であり、そこに邪馬台国が存在したと考えるのが自然である、とする考え方だ。たしかに鉄はきわめて重要なマテリアルだった。鉄の農具があれば農作業はグッと効率がよくなったし、鉄の武器は強力な殺傷力を発揮した。鉄を制する者が国を制したのである。となれば、鉄を制した九州こそが邪馬台国の舞台にふさわしいというわけである。

・卑弥呼の居所に関する記述が北部九州の環濠集落と合致する
倭人伝は卑弥呼のいた場所について「宮室、楼観、城柵、厳かに設け、常に人有りて兵をもちて守衛す」と描写しているが、環濠集落だった吉野ヶ里遺跡のありさまとよく合う。吉野ヶ里からは推定高10メートルにもなる物見櫓のあとが見つかっており、これが「楼観」と考えられる。また濠を掘ったときの土で土塁を築き、そのうえに柵を設置したのが「城柵」と考えられる。「楼観」と「城柵」がセットで見つかったのは吉野ヶ里だけである。また、いうまでもなく吉野ヶ里遺跡は弥生時代屈指の大集落跡である。きわめて強大な権力が存していたのは間違いなく、それが邪馬台国だとしてもまったくおかしくないし、そう見るのが自然とも思われる。

・吉野ヶ里の最盛期は2〜3世紀と推定され、邪馬台国の時期と合致する
吉野ヶ里遺跡は紀元前3世紀ごろから紀元3世紀まで栄えたと考えられるが、そのうち最盛期は2〜3世紀と推定される。これは卑弥呼が魏に使者を送った239年という年と時期的に合致する。年代的に矛盾がなく、吉野ヶ里ほどの規模の集落は全国的に見てもきわめてレアであるから、吉野ヶ里が邪馬台国でなければ、いったい何なのか、といいたくなるくらいではないか。


(畿内説)
・前方後円墳が大和から発生している
前方後円墳という墓形式は世界的にユニークなものだが、これが登場したのには何らかの意味があるはずである。しかも畿内に位置する箸墓古墳がその皮切りとなっていることは特筆されるべきである。「何らかの意味」とは、おそらくは倭国の体制の大きな変革であり、それはおのずと「一女子を共立して」倭国の乱を終息させた卑弥呼による統治を想起させる。そして、卑弥呼の死が247〜8年であるのに対し、箸墓古墳の推定築造時期が250〜60年ごろであり、箸墓古墳が卑弥呼の墓と考えるには整合性がある。

・邪馬台国の時代には環濠集落は解体している
卑弥呼が女王として統治したと考えられる2世紀末以降は、すでに巨大環濠集落は解体した時期に当たる。したがって吉野ヶ里を邪馬台国と見るのには無理がある。それに対して纏向遺跡には環濠がなく、新時代の「都市」が形成されていたことがうかがわれる。倭国大乱を終息させ、新しい時代を迎えた卑弥呼の国として見ると辻褄がよく合う。

・倭人伝の伝える「倭国乱」とは相当広域なものであった
卑弥呼共立の契機となった「倭国乱」は2世紀後半だったと推定されるが、それがどれくらいの規模だったかというと、全国の遺跡の出土物からすると、北部九州から関東に至る広大な地域にわたっていたと考えられる。そして、この時期に近畿の王権勢力が拡大し、西日本を掌握している。それからすると、邪馬台国を九州内の出来事と限定して見るのは不自然である。古代とはいえ全国的なスケールで見る必要があり、九州の範囲内に話を留めるのは無理がある。


といったものである。これらのほかにもあらゆる論点が多岐にわたって細かく示されており、互いに反論も提示されている。が、九州説、畿内説のどちらにも説得的な部分もあれば弱点もある。私は奈良出身なので心情的にはやはり邪馬台国は奈良だったほうが嬉しい(笑)。だが、かといって、絶対に奈良あるいは畿内でなければイヤだということはない。それは事実が決めればよい話である。


ところが、専門家の議論のなかには、はじめに結論ありきの感が拭えないものが少なからずある。自分の出身地や居住地、学校系列関係等によって畿内説か九州説かのどちらかに立ち、いったん立場を決めてしまうと、そのあとはいろいろ検討を重ねているようでも、自説に都合のよい材料を次々と繰り出しているだけに思われるものもある。たとえどんな新しい発見、科学的考察があっても、どこまでもそれを認めようとはしない態度の人もいる。


たとえば、年輪年代法という年代考証の科学的手法を奈良文化財研究所の光谷拓実氏が1980年代に案出したことがあった。これは木の年輪形成のパターンから、その木が生育していた時代を暦年で特定する方法である(といってしまえば簡単だが、年輪年代法の確立には光谷氏の並々ならぬ努力がある)。この方法で大阪府の池上曽根遺跡から出土した木が調べられたところ、紀元前52年に伐採されたという結果が出た。この結果は、当時の常識を100年も遡るものであった。そのため、保守的な学者のなかには、木は伐採後長期間放置されたあと使われたためだ、とか、年輪年代法そのものが信用できないなどと、あくまでも結果を受け入れようとしない人がいた。


合理的に説明されて理解できる事柄については、たとえ自説と違っていても肯定すべきであろう(つまり、自説のほうを修正すべきであろう)。聞く耳を持たなければ、もはや論争に勝つこと自体が目的化しているといわれてもしかたがない。邪馬台国論争では双方の議論がかみ合っていないこともよくあり、そうなると議論は不毛である(正直、これが「学問」といえるのかと論述の姿勢に疑問を抱いてしまうこともある。邪馬台国論争をはじめとした歴史の問題は、なぜか骨肉の争いを呈する傾向にありがちで不思議でしかたがない)。


私はいま古代に興味を抱いているが、「論争」に執着する気はない。私の関心は「論争に勝つこと」ではなく、「古代とはどんなだったのだろう?」という点にあるからだ。古代は謎が多い。それゆえにこそ、乏しい材料をもとに合理的に推理していくのが楽しいのである。それが古代ロマンというものであおる。あまりにも論争に勝つこと自体が自己目的化しているような文章と出合うと興ざめすること甚だしい。せっかく古代に関心を抱いた人間でも遠ざけてしまいかねないことに専門家(の一部)はぜひ気づいてほしい(私ももって他山の石としなければならないが)。要はなんのために探究しているのか、ということだ。


「論争」に参戦するつもりはないが、邪馬台国については私もボンヤリとした考えがないではない。そもそも、邪馬台国は一般に「やまたいこく」と読まれているが、ほんとうにそういう読み方でいいのか? という疑問がある。「やまたいこく」という名称はちょっと異様な感じがしないだろうか。当時のほかの国名は「倭国(わこく)」とか「奴国(なこく)」とか「伊都国(いとこく)」というふうに基本1字1音のシンプルで短いもの(ほとんどが3音まで)だったのに対して、邪馬台国だけ「やまたいこく」と読むのはちょっと違和感がないか、ということだ。卑弥呼の次の女王は「台(臺)与」または「壹与」というそうだが、この名前は「台与」の場合は「とよ」、「壹与」とする場合は「いよ」と読むという。つまり「台」を「と」と読んでおり、それからすると邪馬台国も「やまとこく」と読める。のちの「大和」王権を考えれば、じつは「やまとこく」と読むべきではないかという気がしてくるのだがどうだろうか。


(追記)
このエントリーを書いた時点では知らなかったのだが、私の発想と同様、「邪馬台国」を「やまとこく」と読む考え方はすでにあるらしい。たとえば、大平裕氏の『日本古代史 正解(纏向時代編)』(講談社)によれば、『隋書』の「倭国伝」には「邪靡堆(やまと)を王都とする。ここが、すなわち『魏志』(『三国志』倭人伝)にいう『邪馬』である」という記述が、唐の『後漢書』には邪馬台国について「案ずるに、今は邪摩堆(やまと)と名づく。音の訛なり」という記述があるそうである。


そして著者は古代中国では「邪馬台」は「やまと」と発音されていたらしいことから、「邪馬台国」は「やまとこく」と読むべきとしている。また、民俗学の大森志郎氏も「邪馬台」は「やまと」と読んでいいという判断を示しているという。上でも書いたが、「やまとこく」と読むほうが、のちの「大和王権」とのつながりからより納得できるのだが、どうだろうか。