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アート鑑賞ナビゲーター藤田令伊のブログ形式のメディアです。
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箸墓古墳
奈良・古代
箸墓古墳


また奈良の話をしたいと思う。先日、纏向(まきむく)遺跡の特異性について書いた。その要因のひとつとして纏向遺跡には箸墓古墳が存在しているということを挙げた。今日は箸墓古墳について触れてみたい。


箸墓古墳は纏向遺跡の南の端に位置している。全長280メートルの前方後円墳で、巷間、「倭迹迹日百襲姫」の墓といわれている。え、読めない? そりゃそうだろう。知らなければとても読めたものではない。これは「ヤマトトトヒモモソヒメ」と読む。ヤマトトト? 知っていてもスラスラといえない。私は「ヤマト」「トトヒ」「モモソヒメ」と三分割して覚えている。で、纏向遺跡が特異だったのと同じように、このヤマトトトヒモモソヒメの墓たる箸墓古墳もまた特異な存在なのである。特異の二乗である。


箸墓古墳がどう特異かというと、まず、この古墳こそが日本のあちこちに広がる巨大な前方後円墳の端緒と考えられていること。最初のものは、それ以前には存在しなかったのだから、それだけで特異である。


次に箸墓古墳はいわばプロトタイプであるにもかかわらず大きいのだ。さっき全長280メートルとさらっと書いたが、この規模は当時にあっては超ど級だったと思われる。箸墓以前にも古墳はつくられていたが、せいぜい全長80メートルとか90メートルといったぐらいの規模しかなく、箸墓になって突然変異を起こしている。長さで3倍ぐらいのスケールということになるが、体積でいえば9倍にもなり、実際に現地で見比べてみると圧倒的といってもよい箸墓の迫力に驚かされる。とても最初期のものとは思われず、最盛期のものといわれたほうが納得できるくらいだ。この「格差」はいったい何なのだろうか? 箸墓は最初の巨大前方後円墳であるにもかかわらず、全国トータルでも第11位にポジショニングされる。


「箸墓」というちょっと変わった名前にまつわる伝承もある。葬られていると考えられているヤマトトトヒモモソヒメはオオモノヌシという神と結婚するが、なぜかオオモノヌシは夜にしかやってこない。それでモモソヒメは「いつも夜にしかお越しにならないのでお姿を見ることができません。朝までいらっしゃってください」と頼んだところ、オオモノヌシは「もっともな願いである。それでは、明日の朝、私はあなたの櫛箱のなかに入っていよう。ただし、私の姿を見て驚かないでほしい」と条件付きで望みに応えることにした。


翌朝、モモソヒメが櫛箱のなかをのぞくと、そこにはなんと紐のような小さな蛇がいた。ヒメは驚いて悲鳴を上げた。オオモノヌシは自分の姿を見てヒメが驚いたのを恥じ、「おまえは約束を破って驚き、私に恥をかかせた。こんどは私がおまえに恥辱を与えよう」と告げて三輪山へと去っていった。モモソヒメは自分のしたことを悔い、その場に座り込んでしまった。そのとき、箸がヒメの局部に突き刺さり、それがもとでモモソヒメは死んでしまった――という何とも不可思議な伝承なのである。箸墓という名はこの伝説に由来する。


箸で陰部を突いて死んでしまうなどとは、ハンパな発想ではない。現代の小説家でもそんな筋書きは容易には思いつかないのではないだろうか。仮に思いついたとしても書くのがためらわれるような、きわめて特異な死に方である。いったい、なぜヒメはこんな死に方をしなければならなかったのだろうか? この伝承は何をいわんとしているのだろうか? 


『古事記』と『日本書紀』は大和朝廷初期の陵墓に関しては場所を示すぐらいが常なのに、この箸墓についてはボリュームを割いて築造の経緯についてまで触れている。異例の扱いである。それによると箸墓は「昼は人が造り、夜は神が造った」といい、大和と河内の境にある大坂山の石が使われ、人々が手渡しで運んだのだという。人と神が造った不思議な古墳、それが箸墓なのである。そして、記紀はこの箸墓のある地を「大市」としている。


通説では箸墓古墳は3世紀中頃の250〜60年ごろに造られたと考えられている。この年代推定が大きな議論を巻き起こしている。日本の古代史となると必ず出てくるのが邪馬台国である。その邪馬台国の女王卑弥呼が死んだのが、じつは247年もしくは248年と推定されているのだ。箸墓古墳の築造時期とピッタリと合致する。ということで、箸墓古墳は卑弥呼の墓ではないか、という説が盛り上がっている。


当初、この話を知ったとき私はトンデモ説なのではないかと思ったのだが、古代史についていろいろ調べ学んでいくと、どうやらいまでは箸墓古墳=卑弥呼の墓説は決してトンデモ説ではないようである。箸墓が卑弥呼の墓だとすると、時期的なものがピッタリだし、突然変異のように出現した巨大前方後円墳というのも説明がつく、ということで、むしろかなり有力な説と見なされている。となると、箸墓古墳のある纏向遺跡こそが邪馬台国だった? ということになり、纏向と箸墓にいま熱い眼差しが向けられているのである。


と書いてくると、私も同様の見方をしているように思われるかもしれないが、それは少し違う。もちろん、奈良出身なので心情的には邪馬台国が纏向遺跡なら面白いだろうなと思いはするが、私自身は邪馬台国がどこにあっても別に構わない。それよりも、こうした深まる謎について純粋に探り、考えていくほうが知的好奇心が刺激され楽しい。邪馬台国うんぬんにこだわることなく、故郷・奈良が湛える歴史ロマンにもっと迫ってみたいのである(ということで、つづく)。