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ARTRAY

アート鑑賞ナビゲーター藤田令伊のブログ形式のメディアです。
展覧会レビュー、アート鑑賞のヒント、アートニュースなどアートに関する
effectiveな情報を発信しています。アート以外についてもときどき書きます。
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纏向遺跡
奈良・古代
恐縮ながら、また奈良の話をさせてもらいたい。奈良の遺跡といえば高松塚古墳や石舞台古墳が有名だと思うが、纏向遺跡というものをご存じだろうか? 難しい字なので知らなければ読めないと思うが、これは「まきむく」と読む。で、私がいまもっとも心惹かれている奈良の古代は、飛鳥でもなければ平城京でもなく、この纏向遺跡なのである。


私自身、これまで纏向遺跡のことはほとんど何も知らなかったが、纏向はどうも大変な代物のようなのだ。どう大変かといえば、きわめて個性的な性格を帯びており他とは一線を画しているという。


纏向遺跡はJR桜井線の巻向駅(現在はこのように「巻向」と表記される)周辺に広がっている。東西2キロ、南北1.5キロほどの広範囲で、この広さはのちの飛鳥京を凌ぐ。2世紀後半に突如として出現し、150〜160年間ほど栄えたのち、西暦340年ごろやはり突如として消え去ったという。突然現れ、消滅したとはいかにも謎めいているが、纏向遺跡の特異性はそれだけではない。


●環濠がない
弥生時代までの遺跡においては周りを取り囲む濠(環濠)が存在するのがふつうなのに対して、纏向遺跡には環濠のあとが見つかっていない。いうまでもなく、環濠は外敵から集落を守るために必要な備えである。それがないということは、纏向遺跡においては外敵からの攻撃を心配する必要がなかったということになる。これが何を意味するかは、きわめて興味深い。


●水田のあとが発掘されない
纏向遺跡からは水田のあとが発掘されていない。纏向遺跡の時代は弥生末期で、本来なら当然、水田が発掘されなければならない。ところが、少なくとも現在までのところ纏向からは水田跡がいっこうに出てこないというのだ。つまり、纏向遺跡では農業が行われていなかったことになり、古代遺跡としてはきわめて異例である。


●いろんな地方の土器が出てくる
纏向遺跡からは大和地方のものだけではなく、さまざまな地方の土器が出土している。東海、北陸、関東、山陰、吉備、北部九州、鹿児島など、古代とは思えぬ広範な土器が多数見つかっており、当時すでに各地との活発な人的交流があったことがうかがわれる。


●巨大水路のあとがある
纏向遺跡には「纏向大溝」という巨大な水路の形跡が見つかっている。幅5メートル、深さ1.2メートルほどの水路で、遺跡のなかを「人」の字を描くように2本走っている。総延長は2.6キロにもなり、これがいったい何なのか。水路といってパッと思いつくのは用水路だが、上記の通り纏向には水田がない。農業を行っていないのに用水路はおかしい。濠というのも妙である。集落の外ではなく、内部に濠をつくってもあまり意味がない。また、この程度の大きさでは敵の襲撃を防ぐには不十分である。ということで、この水路はおそらくは運河だったのだろうと考えられている。そして、この運河と見られる水路は大和川につながり、難波津(大阪湾)から瀬戸内海へと水運が外界とダイレクトにつながっていたと見られている。


●ベニバナが見つかっている
纏向遺跡からはベニバナの花粉も見つかっている。溝(上記の纏向大溝ではない)のなかで大量に発見された。ベニバナはもともと日本には自生しない植物で、漢方薬や紅を染めるための原料として大変貴重なものだった。纏向で発見されたベニバナは量と発見場所から染料の廃液に混じっていたものと考えられている。紅を染めた布は高貴な存在を示唆している。また、ベニバナによる紅の染色は渡来技術であることから、当時としては先進技術を有した渡来系の職人集団が纏向にいた可能性も考えられている。


●住居がふつうではない
纏向遺跡が栄えた時代の日本では登呂遺跡に見られるような竪穴式住居が一般的であった。ところが、纏向遺跡から発掘された住居跡は竪穴式住居がほとんど見られず、木造の床を持つ高屋や平屋の住居ばかりだというのである。さらには当時国内最大規模の20メートルもの間口を持つ建物の跡も見つかっており、これは神社建築の祖形ではないかとも考えられている。


以上のことから纏向遺跡は、その地味な名称とは裏腹に、きわめて特異な集落だったと見られている。飛鳥京を凌ぐ広大な領域に、水田はなく運河があって船舟が走り、人々は各地と行き来し、高屋や平屋の家々が建ち並ぶ。そしてひときわ大きな神社のような建築物が鎮座した――そこから浮かび上がってくるイメージは、もはや「都市」であり「都」である。纏向遺跡は日本最古の都市の可能性が高いのである。


●箸墓古墳がある
そして、なんといっても纏向遺跡には箸墓古墳が存在するのである。古代に関心のない人にはこれもピンとこないかもしれないが、箸墓古墳もまた大変な代物なのである。日本最古の巨大前方後円墳と考えられており、この存在の意味も決して小さくはない。


ということで、纏向遺跡について知れば、いやがうえにも古代ロマンが掻き立てられてしまうのだ。纏向遺跡と箸墓古墳については、今後も少しずつ論じてみたいと思う。