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ARTRAY

アート鑑賞ナビゲーター藤田令伊のブログ形式のメディアです。
展覧会レビュー、アート鑑賞のヒント、アートニュースなどアートに関する
effectiveな情報を発信しています。アート以外についてもときどき書きます。
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美の力
アートを考える
最近、故郷・奈良にいまさらながらハマッている話を書いたが、年が明けても“マイ奈良ブーム”は続いている。お正月ということで初詣に出かけた人も多いと思うが、奈良には多くの仏がいる。現代の私たちがお寺で拝む仏様はかつての姿とは大きく違っている。いまの仏様は塗装がとうの昔に剥げ落ちて枯れた味わいだが、たいていの仏様はつくられたときは全身金綺羅金の姿をしていた。


仏教が日本に伝わったころ、数々の経典とともに仏像も渡来したと考えられている。金綺羅金の仏像を初めて見た日本人はさぞ驚いたことだろう。金色に光り輝く姿は日輪を身に宿していると思われ、天竺から朝鮮に至る国々がこの光り輝く仏像を篤く信仰して繁栄していると知れば、日本も乗り遅れてはいけないと考えたとしても不思議ではない。仏教伝来とはリアルにはそういうものだった気がする。


つまり、仏教伝来では経典の思想だけではなく、仏像のビジュアルが大きな役割を果たしたはずだというのが私の考えなのである。これは「美の力」といってもいいと思うが、ビジュアルに訴える力はキリスト教でも活用された。ルネサンス期までの聖母像も金綺羅金がふつうで、やはり太陽を内包したものとして表現された(私たちが金色に特別な価値を見出すのは、金が太陽と強い結びつきを示唆するからだろう)。あるいは荘厳な教会建築のなかに一歩踏み入れれば、四の五のいうまでもなく、人々は特別な何かを強烈に感じたことだろう。


今年はソチ五輪があるが、ロシアにおけるロシア正教の隆盛においても同じような事情がある。当初ロシアは、自国の宗教として何がふさわしいか、イスラム教、ローマ・カトリック教、ギリシア正教を比較検討していた。ところが、コンスタンチノープル(現イスタンブール)でソフィア寺院の壮麗さと繰り広げられる典礼の見事さに感動してギリシア正教を国教とすることとし、それが今日のロシア正教へと至っている。ロシアでは、このような感動や畏敬の念を「ウミレニエ」といって重要な概念となっている。


このように美の力は歴史をも動かすことがある。現代でも美の力は同じパワーを秘めている。それだけに美の力が権力者によって恣意的に活用されることがある。平壌には巨大な金日成と金正日の像がある。理屈をこねる以前に、ビジュアルで民衆を圧倒しようというわけである。あるいは、天安門広場には毛沢東の巨大肖像画が掲げられている。


私たちは、とりわけ権力を持つ側が美の力をどう使おうとしているかについて敏感でなければならないと思う。ときどき、ある美術関係者から「文部科学省から助成を得られることになりました」とか「政治家の○○氏と面談しました」といったメールが送られてくるのだが、そういうメールをもらうたびに、この人は無防備だなと思ってしまう。ご当人は権力者とコネクションができて喜んでおられるようなのだが、気がつけばうまい具合に利用されていた、ということにならないだろうかと危なっかしいものを覚える。


あるいは、そもそも権力と関係が深くなることがそんなに嬉しいことなのだろうか。近世まではたしかに美術は権力者の庇護のもとで発展したが、今日ではもはやそうしたものとは関係なく、むしろ自由と独立が確保されているほうが大事ではないだろうか。やたらと権力者に近づこうとしたがる美術関係者は眉唾に思えてしかたがないし、権力とご縁ができたところで、それが常に幸いするとは限らない気がするのだが。美術が権力づいた途端、腐っていくことはいまでは日展がよく示している。私は美術には何よりしがらみのない自由が大切だと思う。


正月早々、ちょっと辛口の話になってしまったが、最近、安易に権力志向に走りたがる動きがあるように感じられるので、ついつい書いてしまった次第。ご容赦あれ。