CALENDAR
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 
<< July 2020 >>
PROFILE
LINKS
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
amazon1
amazon2
amazon3
amazon4
ARCHIVES
MOBILE
qrcode
OTHERS

ARTRAY

アート鑑賞ナビゲーター藤田令伊のブログ形式のメディアです。
展覧会レビュー、アート鑑賞のヒント、アートニュースなどアートに関する
effectiveな情報を発信しています。アート以外についてもときどき書きます。
<< 中之条ビエンナーレ 2019 | main | 未体験ゾーンだったアリス・コンサート >>
「小さな美術館」と「大きな美術館」
アートを考える

世の中には「小さな美術館」と「大きな美術館」がある。両者の区別を明確に引くことはできないけれど、それでも、何となく、区分けはできるように思う。

 

大きな美術館と小さな美術館とでは性格が違う。それは当たり前のことで、大きな美術館でなければできないことがあるし、小さな美術館ならではということもある。両者の性格に差異があるのは不思議なことでもおかしなことでも何でもなく、それで平常だといってよい。そのうえで、両者の違いについて、ふと考えることがある。

 

 

アートを愛好する人々は、大きな美術館にも行くし、小さな美術館を訪れもする。いずれも「アートを楽しみに行く」ということでは変わらないが、少し掘り下げると、どういうアートを楽しみに行くのか、あるいは、どういうふうにアートを楽しんでいるか、という点になるといささかの違いがあるように思う。

 

 

日本においては、大きな美術館ではもっぱら企画展が楽しまれている。大きな美術館で催される企画展は、その美術館の学術研究の成果を披露するものであったり、小さな美術館では成し得ない大がかりなものであったり、滅多に見ることのできない世界的名品が取り寄せられるものであったり、あるいは、時代や社会に鋭く斬り込む先鋭的なものであったりする。私たちはそれらを見て驚嘆したり関心したり考えさせられたりし、刺激を受け意義深い経験に満足を覚えている。

 

 

一方、小さな美術館での鑑賞体験は違ってくる。どこかの地方の小規模な美術館を訪れるとき、正直、大きな美術館の企画のようなものは期待していない(あるいは、期待できない)のがふつうだろう。小さな美術館の場合、社会的意義とかとは異なる次元の中身を期待していると思う。たとえば、作家の誰かに特化した個人美術館であれば、当該作家の作品に触れて限りなくその人物の世界に浸るひとときを楽しむとか、陶芸や漆器など何かのジャンルに根差した美術館なら、その分野特有の表現を味わい、その芸術についての理解を深くするとともに魅力にしびれたりしていよう。

 

 

そのように、ひと言で「美術館を楽しむ」といっても、小さな美術館と大きな美術館という座標軸を一つあてがうだけでも、その内容には相当な差があることがわかる。この差異を念頭に置くと気がつくのは、それぞれの展示を提案する美術館側の意図や問題意識の違いである。総じていえば、大きな美術館は社会的な問題意識が強く、小さな美術館はもっと別次元の問題意識を抱いていることが多い。

 

 

具体例をもとに考えてみよう。いま国立西洋美術館では「ハプスブルク展」という企画展をやっている。この展覧会はウィーン美術史美術館に収蔵されているハプスブルク家ゆかりの華麗なる作品世界を日本の私たちに見せてくれるものである。はるばるウィーンから100点もの品々を日本へ持ってくるなどという芸当は小さな美術館ではなかなか叶わないことだから、まさに大きな美術館だから実現した企画といえる。主催がウィーン美術史美術館および国立西洋美術館という当該2館のほかTBSと朝日新聞社というナショナルメディアがついている点も同様だ。

 

 

この企画は日本とオーストリアの友好関係樹立150周年を記念するものという意味合いも含んでいる。詳しくは知らないが、両国政府や経済界などでは種々のイベントも催されたりしているだろう。社会的なスケールの企画であり、文化振興という面でも国際交流という面でも、さらには経済施策としても開催意義は揺るがない。本展を担当した学芸員はこのことを誇らしく思えど、恥じることは露あるまい。

 

 

他方、小さな美術館の事例として、野坂オートマタ美術館を見てみる。といっても、知らない人が少なくないかもしれない。伊豆高原にある小さな美術館で、オートマタという自動機械人形の保存・展示に特化したところである。HPを見るといまは常設展のみで企画展は開催されていないようだが、桜の季節やGW、お盆、年末年始には特別展が開かれる。

 

 

ここではさまざまなオートマタが来館者を楽しませてくれる。手紙を書くオートマタやハシゴの上で逆立ちするオートマタ、はては自分でお茶をついで飲むオートマタなんてものもある。展示ギャラリーの空気は、社会的意義うんぬんというよりも、私的な楽しみに満ちている(もちろん当館には社会的意義もあるのだが)。

 

 

この二つの事例を比べてみると、そこに作用している問題意識がまったく別物であることが見えてくる。西洋美術館の場合は、オーストリアの文化を私たちに伝えるための社会的使命を果たすとともに、意義ある企画を実施することによって美術館および担当学芸員の業績を上げようとする意識が働いていよう。野坂オートマタ美術館の場合、そちらも館の評判や担当者の名を上げたいという気持ちもなくはないだろうが、それよりもどちらかといえば、オートマタそのものの魅力を少しでも多くの人に伝え、オートマタの面白さを知ってもらいたいと願う意識のほうが強いと思われる。

 

 

ここに大きな美術館と小さな美術館の決定的といってもよい違いを見出すことができる。つまり、大きな美術館の問題意識はいわば川上志向で、小さな美術館の問題意識は川下志向ということだ。この違いは国立西洋美術館と野坂オートマタ美術館のみに当てはまる特殊事情ではない。概ね、大きな美術館と小さな美術館一般に共通する事情といえる。

 

 

問題意識の川上志向と川下志向は、美術館の運営フィロソフィーや運営形態に直結する。大きな美術館では社会的な問題意識に立脚するため、どちらかというとアカデミックな価値が重視される。学芸の世界でどのように評価されるか、社会的なインパクトをどれくらい残せるかといったあたりが関心の中心である。それに対して、小さな美術館では来館者にどれだけ喜んでもらえるか、がもっぱらの関心事となる。学術的なインパクトうんぬんよりも市民的ポピュラリティのほうが重視される傾向があるわけだ。

 

 

両者の違いは、専門家と一般の違いに通ずるものがある。記憶に残っているケースがある。ある国際芸術祭でのひとコマである。ある年の芸術祭に出かけて、その光景と遭遇した。学芸面のディレクションを担っていた人たちのあいだで交わされていた会話である。そのときの出品作のなかで観客にもっとも支持されていた作品について彼らは話していた。その内容は「あんなものに人気が集まるのだから困る」「ポピュリズムに媚びた作品で、ほんとうの価値などない」などときわめて手厳しいものだった。

 

 

彼らのいわんとするところはわからないではなかった。話題の的になっていた作品は、たしかに、大衆受けするようなテイストの作品で、専門家が好みそうな「学術的価値」は私の眼からもそれほど認められないものではあった。だが、事実として、多くの観客は口々にその作品が「いい」「素晴らしい!」と賛辞を贈り、「心が癒される」と好評だったのだ。つまり、一般の人気と専門家の評価のあいだには相当大きな齟齬が生じていたわけである。

 

 

あのときの専門家たちの気持ちを察することはできる。彼らは観客の「レベル」に不満だったのであり、もっと「質の高い」作品が人気を集めるようであってほしいと願っていたのだ。彼らは自分たちが評価するような作品が人気を集めてこそ、この国の文化が向上したということになると信じているのだと思われる。そして、あのとき観客が支持した作品などほとんど評価する気にもなれず、むしろ本音では排除したかったくらいだったのだろう。

 

 

この専門家と一般の差異は、大きな美術館と小さな美術館の差異と相似形をなしている。大きな美術館は自分たちの権威と学識でそれに見合うコンテンツを求め、小さな美術館はそれよりもポピュラリティを重視した運営を目指す。すなわち、大きな美術館は専門家寄りで、小さな美術館は一般寄りといえそうである。この両者の違いは一種の社会的分業として受けとめればよいと思う――のだが、一抹の引っかかるものを私は禁じ得ない。というのは、こんなことがあるからだ。

 

 

私は仕事柄いろんな美術館の人と知り合う。大きな美術館の人とも、小さな美術館の人とも知り合う。取材させてもらったり、所蔵している作品について協力してもらったり、何かの仕事をご一緒したり、あるいは美術館でセミナーや講演をさせてもらったり、知り合うきっかけはさまざまである。さまざまであるが、きっかけのほとんどは、つまるところは仕事である。何らかの仕事を仲立ちとして美術館の人と出会い、プロジェクトを進めているあいだ時間と空間を共有し、終われば別れる。その繰り返しである。

 

 

仕事で出会い、別れていくのは、小さな美術館でも大きな美術館でも変わるところはない。しかし、大きな美術館の場合はその仕事だけの出会いに終わり、小さな美術館の場合はその後も交流が続くことが多い。別に美術館の大小で意図してそうしているわけではないにもかかわらず、振り返れば事実としてそうなっている。

 

 

大きな美術館の人より小さな美術館の人のほうが親密になりやすいのは当然と思われるかもしれない。たしかに、大きな美術館の人のほうがより多くの人と仕事をする機会があり、そのため一つの出会いはワン・ノブ・ゼムとして捌かねばならず、結果として当該の仕事のみのつき合いにとどまるということは十分考えられそうだ。

 

 

だが、それだけではないだろうとも推察する。大きな美術館の人と小さな美術館の人とでは、そもそも他者(私)に対する接し方に違いがあるからだ。ひと言でいえば、大きな美術館の人のほうが “上から目線” なのである。

 

 

これはただ単にそう感じるというだけにとどまらず、れっきとした “物証” もある。ある時期まで、私はその年に出会った美術館の人に年賀状を送るようにしていた。だが、大きな美術館の人からは返信がまったくこないのである。ふつう、年賀状をもらったら返信を出すというのが礼儀だと思うが、驚くことに、大きな美術館の人からは一人の例外もなく返信をもらったことがない(なかには本を献呈しても、お礼のメールひとつ寄越さなかった人もいる)。こうなると、いくら鈍感な私でも自分が「下」に見られていることがわかる。そのことに気づいてからは、個人レベルのつがなりができたと感じた人以外、美術館関係者に年賀状を出さなくなってしまった。

 

 

私は何もここで年賀状の恨みつらみをいいたいわけではない。ここに大きな美術館と小さな美術館の “体質” の違いが見出せるように思うのだ。すでに述べたように、大きな美術館が社会的に意義ある活動を行い、学術的な価値を生み出していることに疑問の余地はないだろう。だが、そのよって立つ源が、選民意識の色が濃く、周りを下に見る自尊心にまみれたものであったとしたら、どうだろうか。それでも、表に出ている展覧会が素晴らしいものであればそれでいいではないか、という意見もあるかもしれない。しかし、私は引っかかるものを覚えるのだ。

 

 

美術館とはいったいどういう装置なのだろう、という疑問が湧き上がる。答えはさまざま考えられる。「美術品の収集・保存という社会的な役割を果たす場所」というのも一つの答えだし、「文化に対する理解と関心を広める施設」という答えもあるだろう。しかし、美術というものが「見られる」ことによってはじめて成り立つものだとすれば、何よりも鑑賞者の立場に立った「いろんな美術を、いろんなふうに楽しめるところ」というのが、かなり重要な答えになるのではないだろうか。とすれば、美術館はもっと一般の来館者を大事にすべきではないかという考えにつながるのではないか。

 

 

美術館の人は、大きな美術館であれ小さな美術館であれ、異口同音に「多くの人にきてもらいたい」という。だが、上記のような実情を念頭に置くと、大きな美術館の人がほんとうに心の底からそのように願っているかどうかは疑問が残る。ただ漠然と形而上のレベルでそう思っているにすぎないのではないか、とまでいっては厳しいだろうか。

 

 

もっとも、「大きな美術館の人」というように大きな美術館のスタッフをひとくくりに語ってしまうのも、じつは適切ではない。大きな美術館の場合、一般的に、スタッフは学芸部門とそれ以外に分かれている。学芸部門のスタッフすなわち学芸員は美術館の花形と見なされている。学芸以外のスタッフは学芸員たちよりも一段階「下」の存在として扱われているふしがある。大きな美術館の学芸員たちはまるで、胸を張り顎を突き出さんばかりの態度で振る舞っていることが、私がこれまで見てきた限り、きわめて多い。それに対して、たとえば教育普及部門のスタッフは学芸員たちを決して下には置かぬ気の使いようである。美術館の内部にも暗黙の階層社会が存在しているのである。

 

 

ふんぞり返っている学芸員と出会うとほんとうに胸糞が悪くなるのだが、そういう輩は大きな勘違いをしていると私は思う。学識が深く、教養があれば「上」というものではあるまい。ためしに、学芸員に教育普及のスタッフがやっているような鑑賞者をうまくリードするガイドをやってみろといえば、まともにできる者はほとんどいないだろう。つまり、社会的分業にすぎないのである。

 

 

大きな美術館と小さな美術館も、おそらくは社会的分業というものであろう。冒頭に記したような人々の多種多様な美術館の楽しみ方を担保するために役割を分担していると考えるのが妥当だ。大きな美術館だから「上」という感覚は錯誤といって差し支えあるまい。なかにはもちろん当てはまらない人もいるとは思うが、大きな美術館のとくに学芸関係のスタッフには一度自分のあり方を省みてもらいたいと思う。そして、もし自らの上位意識に心当たりがあれば、自分のなかの何かを変えるべきだろう。