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ARTRAY

アート鑑賞ナビゲーター藤田令伊のブログ形式のメディアです。
展覧会レビュー、アート鑑賞のヒント、アートニュースなどアートに関する
effectiveな情報を発信しています。アート以外についてもときどき書きます。
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いまさらながら、奈良
奈良・古代
興福寺国宝館へ行ったことがきっかけで、いまさらながら改めて故郷・奈良に眼が向いている。

興福寺はおそらく誰でも知っているだろうが、どういうゆかりのお寺かとなると案外知られていないのではないだろうか。じつは、興福寺は藤原氏の氏寺である。あの藤原(中臣)鎌足を始祖とする藤原氏で、往時は天皇にも並ぶ絶大な権勢を誇った。奈良には春日大社という神社もあるが、春日大社のほうも藤原氏の氏神である。つまり、奈良最大の神社もお寺も、ともに藤原氏の息のかかったところなのだ。


興福寺を実質的に創建したのは藤原不比等という人物である。不比等は鎌足の次男で、この男がなかなかの手腕家だった。大化の改新で中大兄皇子が蘇我入鹿を殺害し、のちに天智天皇となって鎌足は側近になる。ところが、天智天皇が亡くなると跡継ぎ争いが起こり(そのとき鎌足はすでに死んでいた)、天智天皇の息子の大友皇子と弟の大海人皇子が戦い(つまり甥と叔父の争い)、結果、大海人皇子が勝利して天武天皇となった(壬申の乱)。


天智天皇に仕えた藤原氏は、したがって冷や飯食いの身の上になってもおかしくないはずなのに、冷や飯食いどころか、不比等は太政官右大臣となり位人臣をきわめる。しかも、一説では不比等は天智天皇のご落胤だったという話さえあり、そうなると、ますます不比等が栄華をきわめられたのが不思議といえば不思議なのだ。よほど世渡りに長けていなければそんなふうには運ばないはずで、不比等は権力者の二世ではあったが、相当な人物だったに違いないと思われる。


ちなみに不比等は鎌足の次男だから、鎌足にはほかにも子孫がいたのだが、藤原氏を名乗ることが許されたのは不比等のみ。他は再び中臣姓に戻されており、やはり不比等は只者ではないことをうかがわせる。


不比等は天武天皇の妻であり跡継ぎとなった持統天皇に仕え、そのあとの文武天皇、元明天皇、元正天皇と天皇の代替わりが進んでも決して没落することなく、それどころか、娘の宮子を文武天皇の妃にすることに成功し、ついには天皇家と血縁関係を結んでいる。さらに文武天皇と宮子のあいだに生まれた子がのちの聖武天皇で、つまり不比等は天皇の舅からさらには義父にまでなったことになる。


驚くべき人生で、不比等について知れば知るほど、この男を主人公にしたドラマを見てみたい気がしてくる。不比等は720年8月3日、62歳で没する。不比等の危篤にあたっては、前日の2日には平城京の全48寺で薬師経が一昼夜読経されたという。奴婢が良民にされたり大赦が実施されたりもして、天皇や皇后ならぬ人物のためにそこまでのことがなされたのは異例中の異例であった。