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ARTRAY

アート鑑賞ナビゲーター藤田令伊のブログ形式のメディアです。
展覧会レビュー、アート鑑賞のヒント、アートニュースなどアートに関する
effectiveな情報を発信しています。アート以外についてもときどき書きます。
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「表現の不自由展・その後」展示中止があぶり出したこと
ブログ

8月6日は広島に、9日は長崎に原爆が投下され、15日に終戦を迎えたため、わが国ではこの暑い季節はおのずと戦争について考える時季になっている。今年はそれが一層暑くなった。ご承知の通り、あいちトリエンナーレに出品された「表現の不自由展・その後」が“炎上”し、展示中止の騒動となったからだ。

 

ことの顛末は、百田尚樹氏や高須克弥氏らがSNSで展示や津田大介芸術監督を攻撃し、河村たかし名古屋市長が展示中止を大村秀章愛知県知事に迫り、それとともに一般市民からも事務局や美術館へ抗議が殺到、なかには「大至急撤去しろ。ガソリンの携行缶を持っておじゃまする」とテロを予告する脅迫文まで届くに至り、ついに展示が断念された、という次第である。

 

 

今回の騒動は、多様な問題が入り混じっているように見える。もっとも多くの論及がなされているのは「表現の自由」の問題で、ほかにも、出展されていたものがアートといえるのかというアートの定義の問題もあれば、展示あるいは展示中止に至った手続き上の問題もいわれている。あるいは、展示を中止したのは先進国として恥ずかしいというポリシーの問題を指摘する人もいれば、こうなることはわかっていたはずで、それを見抜けていなかったのはお粗末だと運営上の問題を俎上にする声もある。細かく挙げていけば、さらに問題を切り分けることもできそうである。(さまざまな議論が起こっているが、必ずしもこれらの論点が整理されていないことが問題を余計にややこしくしているようにも見える)

 

 

そうしたなかで私がもっとも気になるのは、表現の自由もさることながら、「一般市民からも抗議が殺到した」ということである。津田氏のいうところでは、トリエンナーレ事務局や美術館に寄せられた電話、ファクス、メールは、そのほとんどが抗議で、展示中止への圧力に負けるなといったものはまずなかったという。つまり、社会一般の展示中止を求める声が主催者の想定を上回るものとなり、件の脅迫文もそれがエスカレートするかたちで飛び出した、というのが実際のところといえる。

 

 

主催者側は、展示中止を決定したのは政治家の発言とは「一切関係ない」とはっきり語り、ガソリン散布が予告されるなかでは安全を確保できないという「安全管理上の問題がほぼ唯一の理由」だったとしている。すなわち、展示が中止になったのは政治家の要請に応えてでもなければ、権力に屈してでもなく、一般市民からのテロ予告によってであり、つまりは、社会一般の盛り上がりが招いた結果ということになる(なので、そういう経緯からすれば、今回、表現の自由を棄損した権力者の圧迫——河村市長や菅官房長官らの“圧力”と表現の自由とを結びつける論及は、じつは的外れといえば的外れなのである)。

 

 

展示中止に追い込む直接的な原因となった「ガソリンの携行缶を持っておじゃまする」という脅迫は、いうまでもなく、京都アニメーションでのテロ事件を念頭に置いての言い方である。実際にガソリンがぶちまけられた結果、京都アニメーションがどうなったかという惨劇の記憶がまだ真新しいいま、この脅迫文は通常以上の生々しさをまとっている。私は津田氏が「安全管理上の問題」によって展示を中止した判断自体は妥当だったと思う(手続きの進め方は別にしても)。私が主宰でもきっと同様の判断をしただろう。

 

 

コメンテーターのなかには、上記のように、先進国として恥ずかしい判断、中止すべきではなかったという意見もあったが、万が一、ほんとうにガソリンをぶちまけられて死者が出たら責任の取りようがない、ということを考えると、中止の判断自体はやむなしだったと思う。そして、中止へと追い込んだ異様な「社会の盛り上がり」こそを問うべきではないのか。

 

 

第二次世界大戦を引き起こしたヒトラーのナチス。いまにしてこそヒトラーは悪の権化であり、暴力の化身と扱われているが、それはたしかにそうなのだが、当時、ヒトラーを賞賛し、ヒトラーを支持したのはドイツの一般市民だったことを忘れてはいけない。ドイツには共産党や国家人民党といった他の政党もあった。しかし、人々は国家社会主義ドイツ労働者党を支持したのであり、その圧倒的な声に押されて総統たるヒトラーが生み出されたのである。ピーク時のヒトラー支持率はじつに95%を超えている。ユダヤ人に対する「エスニック・クレンジング」が行われてなお、支持されていたのである。

 

 

ドイツだけではない。日本においても、市民が戦争へと国を後押しした歴史がある。対中国強硬論が政府内で高まるようになり、参謀本部が和平交渉を主張したにもかかわらず、政府は交渉を打ち切る。その政府の強硬方針を支持したのは、ほかならぬ日本国民であった。インテリの一部は政府方針に反対を唱えたが、そんなことは焼け石に水であった。

 

 

ある歴史学者は「日本を戦争の暗い谷間へと引きずりこんだとして、漠然とした少数の『軍国主義者』を非難することが(戦後の)通例となった。しかし、国民の支持がなければ、全面戦争の遂行などできるわけがないのだから、これは奇妙な言い草」であったと鋭く指摘している。実際、戦前の日本では愛国主義、軍国主義が盛り上がり、1941年12月には“弱腰な政府”に対して「開戦すべし」という強硬な投書が3000通殺到したという。それに後押しされて、12月8日、ついに日本はアメリカに宣戦布告し、あの暗い時代へと突入。挙句の果てが広島と長崎への原爆投下となった。

 

 

かたや、あいちトリエンナーレに「展示を即刻、中止せよ」「日本人の心が踏みにじられた」と殺到した声。1941年12月とオーバーラップするところはないか。感情の高まりに任せて、気に食わないものは押しつぶそうとするモーメントが気になる、というか恐い。私たちは第二次大戦を教える教科書で「ナショナリズムの台頭」という文言を習った。それは現実とは隔絶された、知識の世界の文言であった。しかし、この言葉のリアルは、いま私たちが目の当たりにしている事態そのものである。

 

 

広島の平和記念の碑には「過ちはくりかえしませぬ」という文言が刻まれている。悲惨な歴史を経たのならば、私たちはそこから学ばねばならない。だが、私たちは学んでいるといえるのか。寛容ということを簡単に切り捨てる猛々しい声ばかりが勢いを得るようでは、きっと「過ち」は繰り返される。愛国心という名を借りたナショナリズムの台頭は、きっと「過ち」を繰り返す(真の愛国心とナショナリズムは違う)。今回の騒動は、一人ひとりが胸に手を当てて、感情に任せてではなく、同調圧力に安易に乗っかるのでなく、落ち着いて冷静に粘りをもって考えるべき機会だと思う。アートの果たしうる社会的役割というものがあるとすれば、そこのところではないか。