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ARTRAY

アート鑑賞ナビゲーター藤田令伊のブログ形式のメディアです。
展覧会レビュー、アート鑑賞のヒント、アートニュースなどアートに関する
effectiveな情報を発信しています。アート以外についてもときどき書きます。
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アニメ「どろろ」
ブログ

いま、手塚治虫の「どろろ」がアニメで放送されているのをご存じでしょうか? TOKYO MX(毎週月曜22:00〜)とBS11(毎週月曜24:30〜)で週1のペースでオンエアされています(また、アマゾン・プライムでも視聴することができます)。

 

https://dororo-anime.com

 

「どろろ」は手塚治虫の作品のなかでは、ややマニア受けしているものかもしれません。手塚治虫といえば、「鉄腕アトム」や「ブラックジャック」「火の鳥」といったあたりがメジャーブランドで、「どろろ」といっても「それなに?」という声もありそうです。しかし、私はアトムやブラックジャックにも劣らぬ名作だと思います。

 

(以下、ネタバレあり)

 

「どろろ」の主人公は、百鬼丸とどろろの二人です。百鬼丸は、特異な設定に置かれた少年です。醍醐景光という加賀の一地方を治める武将の息子なのですが、百鬼丸が生まれるとき、景光は12の鬼神たち(原作では48)と「自分を天下人にしてくれたら何でもくれてやる」という契約を申し出ます。鬼神たちは景光の提案を了とし、生まれたての百鬼丸の体から12の部位(これも原作では48)を奪って契約を交わします。その結果、景光の国は豊かになりますが、百鬼丸は目もなければ鼻もなく、口もなければ耳も、さらには手も足も、顔の皮膚さえもがないという驚くべき赤子となってしまいます(この百鬼丸の描写は衝撃的)。

 

 

こんな子はとても生き延びられないと小舟に乗せて川へ流されますが、百鬼丸の生への意志は強靭で、医師・寿海に拾われて成長していきます。寿海は百鬼丸に義手や義足を与え、人並みの身体を持たない百鬼丸が生きていくには強くなければならないと考え、百鬼丸を徹底的に鍛えます。目も見えず、音も聞こえない百鬼丸ですが、重い障がいゆえにか、第六感というか心的洞察力、感覚が半端なく磨かれ、やがては剣の達人になります。しかし、こんどは殺生するのに何のためらいも感じないという殺戮マシーンに。寿海は魔物や妖怪にもいろんなものがいて、なかには人間に恩恵をもたらすものもいることを思うと、「私は間違ったのか」と思わず一人述懐します。そして、戸惑いながらも、百鬼丸の義手に刀を仕込んでやるのでした。

 

 

やがて16歳(原作では14歳)になって、百鬼丸は寿海のもとを離れ、旅に出ます。旅の先々で百鬼丸は自分の体を奪った鬼神の魔物たちと出会い、闘います。闘うとき百鬼丸は義手を抜き去り、仕込み刀で魔物たちに挑みますが、このスタイルは寺沢武一の「コブラ」に受け継がれています(寺沢は手塚の弟子)。百鬼丸が魔物を倒すたびに、百鬼丸の体のどこか一つが蘇ります。すべての魔物を倒したとき、百鬼丸の体は本来の姿を取り戻すわけです。そんな旅の途中で、百鬼丸はどろろという悪ガキの盗賊と出会い、いつしか魔物退治の旅をともに続けていく、という物語です。

 

 

今回リメイクされたアニメは、原作からはかなりアレンジが施されています。結論的なことを先にいうと、このアレンジは大変うまくなされているのではないでしょうか。百鬼丸のキャラクターは原作とアニメとではまったく異なります。原作の百鬼丸は最初から武勇の男、骨太で明確な個性の持ち主で、いわば「完成品」です。ところが、アニメの百鬼丸は剣こそ達人ですが、そのほかには何もありません。持ち前のごく鋭い感覚と剣の腕で魔物を倒しこそすれ、それだけです。魔物をやっつけること以外にはまったく何の関心も示さない「未完成」ぶりで、まるで「心」を持たない木偶にすぎません。

 

 

そんな百鬼丸にどろろは「何とかいったらどうなの」とか「そんなことをしたら危ないだろ」などと何くれとなく話しかけます。また、闘いで汚れた百鬼丸の服を川で洗ってやったり、魚を焼いて食べさせたりも。と見ていくと、どろろがやっていることは、要するに百鬼丸の教育と世話にほかならないことに気づきます。どろろは見た目は悪ガキですが、(以下、どろろについての重大なネタバレあり)じつは親が男の子として育てただけで、ほんとうは女の子。アニメでも途中でその事実が明かされます。つまるところ、どろろは百鬼丸の世話女房なのです。

 

 

どろろの教育と世話を受けながら旅をしていくにつれて百鬼丸は少しずつ変わっていきます。魔物を退治して失われた「体」を取り戻すだけではなく、「心」が芽生えてくるのです。どろろが熱を出して倒れたときには、どろろを心配し、里人にケアを乞うまでになります。当初の百鬼丸では考えられなかったことです。どろろに導かれて、百鬼丸は成長していく——つまり、百鬼丸は「木偶」から「人」へと変わっていくというピノキオのような成長譚がこのアニメの底流には存在しています。この点が原作との決定的な違いです。百鬼丸がどこまで「完成品」になっていくかはわかりませんが、ごくアンバランスで未成熟な一面を百鬼丸に与えたことで、キャラクターが大変魅力的になっています。

 

 

とはいえ、どろろとて百鬼丸と出会わなければ、単なるはぐれ者でした。百鬼丸と出会い、ともに魔物退治をしていくことで、人の道に沿って物事を考え、人の道を生きていくことができています。ということは、この二人は、一人ずつでは半端な存在だけれど、二人で生きていくことによって初めて人並みになれているのです。私にはどろろと百鬼丸は、きわめてレアなかたちではありますが、夫婦に見えてきます。夫婦という言い方がおかしければ、つれ合いでもかまいません。そこまで考えて、ふとわが身に照らすとき、私と妻もまた似たようなものであることに気づくのです。

 

 

この二人を見ていると、「ふたりぼっち」とでもいう言葉が頭に浮かんできます。人は一人では生きられないけれど、ほんとうに大事な人が一人いれば、それで生きていくことができる、という人生訓が含まれているのでしょうか。私もそれほど人づき合いが盛んなほうではありませんし、ふだんから大勢がいるオフィスで働いているというわけでもありません。それでも何の違和感もなく生活できているのは、ひとえに妻がいてくれるからでしょう。私一人であれば、ごく不安定で心許ないはずです。しかし、一人の人が生を伴走してくれるだけで、人は生きていける——哲理とも思えるこの事実は夏目漱石の『門』なんかでも描かれている気がします。

 

 

細かいところもよくできています。これは原作を踏襲していますが、体を取り戻すとき、百鬼丸は苦しみ悶えます。何かを獲得するには苦しさも伴うということが示唆されています。また、百鬼丸が魔物を一つまた一つと倒していくにつれ、景光の領土には少しずつ異変が生じていきます。雨が降らなくて水不足となって農作物が不作に陥ったり、隣国が戦を仕掛けてくる準備を始めたり。鬼神たちの神通力が衰えてきている影響が表れます。その衰えは百鬼丸が魔物を倒すことから生じているわけで、父の国の弱体化は、じつは息子がもたらしているという皮肉な関係性が紡がれます。百鬼丸による父親へのリベンジとも読み取れます。

 

 

オープニングとエンディングの歌もいいです。どちらもこのアニメの世界観をうまく演出しています。オープニングの曲を聴くとすぐに「どろろ」の世界に入れるし、エンディングの曲には余韻の残る切なさを覚えます。作品の魅力を大きく増幅しています。

 

 

今回のアニメでは、魔物退治の話のかたわら、こうした綾が随所に織り込まれていて、作品をより深く味わいあるものにしていると感じます。原作にはなかった寿海の戸惑いは百鬼丸という存在やストーリーに深いものを与えていますし、百鬼丸の成長というテーマが盛り込まれたことで作品のクオリティが一次元アップしたようにも見えます。もっとも、おそらくそれは手塚治虫による原作あってのことだと思われますが。アニメ制作者たちの、原作へのリスペクトを保ちながらも、自分たちの「どろろ」を再解釈して再創造するのだという意欲がビンビン伝わってきます。もはや単なる娯楽作品ではなく、十分アートの領域に入っていると私は思います。

 

 

今後、物語はどう進んでいくのか。原作では最後はどろろと百鬼丸には別れが訪れます。このアニメでも多分そうなるでしょう。夫婦のように、つれ合いのように生きてきた百鬼丸とどろろ。しかし、いくら剣の達人であっても抗えないことがあります。「死」です。どれほど強くて濃い絆で結ばれた者同士でも、死という別れは避けようがありません。

 

 

百鬼丸とどろろの別れは、そのメタファーなのだろうと私は解釈しています。私たち自身も、配偶者とはいつかは必ず死に別れなくてはなりません。いつか、必ず。そのことを頭に置けば、いま当たり前のように過ごしている日々が涙が出てくるほどほんとうにかけがえのないものなのだと改めて気づかされます。私もそんな気持ちを常にどこかに持ちながら妻と向き合っていきたく思います。ちなみに、手塚治虫の作品では最後に別れが訪れるものが多いです。「シュマリ」なんかもそうでした。単なるハッピーエンドにならないんですね。

 

 

それにしても、若い世代のクリエイターたちが手塚作品に再び視線を投げかけ、現代によみがえらせるというのも思えばすごいことです。「どろろ」は1967〜68年にかけて連載されたマンガでしたから、なんと50年以上前の作品です。半世紀の時を超えてリメイクされるなど、滅多にある話ではないでしょう。もはや古典と呼んでもおかしくないかもしれません。