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ARTRAY

アート鑑賞ナビゲーター藤田令伊のブログ形式のメディアです。
展覧会レビュー、アート鑑賞のヒント、アートニュースなどアートに関する
effectiveな情報を発信しています。アート以外についてもときどき書きます。
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《ラス・メニーナス》の新解釈?
私的作品鑑賞

ゴヤは「わが師は自然とベラスケス(とレンブラント)」といい、マネは「ベラスケスこそ画家のなかの画家」と語り、ピカソはベラスケスの絵をじつに58枚も模写したという。誰もが一目も二目も置く画家、ベラスケス。その代表作が《ラス・メニーナス》である。

 

ベラスケス01.jpg

 

 

世界3大絵画にも数えられる名作中の名作。プラド美術館2階中央展示室に飾られるこの絵の前には、いつも世界中から訪れる人たちで人だかりができている。ルカ・ジョルダーノが「絵画の神学」とまで讃えた、絵画芸術の一つの到達点と見られている至宝である。

 

 

ところが、それほどのリスペクトをほしいままにしているにもかかわらず、意外なことに「どういう場面が描かれている絵なのか」というごく基本的なところが謎となっている。画面左側で絵筆を手にしている男性がベラスケス自身である。彼はいましもパレットの絵の具を筆ですくい上げ、イーゼルに立てかけられた巨大なキャンバスに次なる一筆を加えようとしているところに見える。では、ベラスケスは何を描いている最中なのか?

 

 

ある人は、ベラスケスは画面中央のマルガリータ王女を描いているところだという。全体的には暗い画面のなかでひときわ明るい光を浴びるマルガリータ。このとき5歳。後年、15歳で叔父にあたる11歳年上の神聖ローマ帝国皇帝レオポルト1世に嫁ぐも、病弱だったためウィーンの人々から疎まれ、わずか21歳でこの世を去ることになる薄幸な運命も知らずに、王女の愛らしさは溢れんばかりに輝いている。長時間、モデルになっているのに疲れ、ご機嫌が麗しくなくなってきたところ、周りの侍女たちが何とかなだめようとしている場面なのだとする。

 

 

実際、彼女の父、国王フェリペ4世は愛する娘の姿をベラスケスに幾度も描かせた。マルガリータとレオポルト1世の結婚は早くから約定されており、ウィーンに向けて、節目節目で未来の王妃の肖像画が“現状報告”として贈られた。いま、それらはウィーン美術史美術館で見ることができるが、1734年の王宮の火事で焼失してしまったものもあるかもしれない。

 

 

しかし、「マルガリータ王女説」には不都合な点がある。もし、ベラスケスがマルガリータを描いているのだとしたら、二人の位置関係がおかしいのである。キャンバスが立てかけられている場所は、マルガリータよりも手前になっている。ということは、ベラスケスがマルガリータを描こうとすれば、左斜めうしろの彼女を逐一振り返りながら、筆を進めていかねばならないことになる。いかにも不自然ではないか? ふつう肖像画を描く場合、モデルは正面に配するものである。いちいち体をねじって振り返っていては、まともに描くことなどできまい。

 

 

また、振り返るといっても、キャンバスとマルガリータの位置関係は、キャンバスのほうがわずかに手前といったぐらいにすぎない。だから、キャンバスの前に立ってマルガリータを見ても、ほとんど横顔にしかならないはずである。肖像画を描くポジションとしては不適当である。ついでにいうと、先ほど、ベラスケスはいましも次なる一筆を加えようとしていると書いたが、もしそうなら、ベラスケスとキャンバスの位置関係も妙である。よく見れば、ベラスケスとキャンバスとのあいだには、侍女やマルガリータが立っているほどの空間があり、ベラスケスの現在位置からはキャンバスには手が届かないはずなのだ。

 

 

このように「マルガリータ王女説」には難がある。そこで、ベラスケスが描いているのはマルガリータではないとする説もある。先ほど、肖像画を描く場合、ふつうモデルは正面に配するものだと述べた。その一般則に従えば、ベラスケスは正面にいる人物を描いていると考えたほうが妥当ということになる。では、ベラスケスの正面にいるのは誰か? それは画面最奥の小さな鏡に映っている。

 

 

鏡にぼんやりと姿を現している二人の人物は、マルガリータの両親、国王フェリペ4世と王妃マリア・アンナである。つまり、ベラスケスは、マルガリータではなく、国王夫妻を描いているというのだ。遠くにある小さな鏡なのではっきりとはしないが、それでもハプスブルク家伝統の糸瓜みたいな顔立ちを見て取ることができる。ベラスケスは、この政治にはあまり関心を抱かず、もっぱら乗馬や狩りにばかりのめり込んだ国王に引き立てられた。フェリペ4世は1日に12時間も野山を駆け回り、ある年に彼が得た獲物はイノシシ150頭、オオカミ400頭、シカ600頭と、にわかには信じられないくらいのものだったという。鏡像ながら、どことなく浮世離れした雰囲気が感じられる気もする。ともあれ、ベラスケスのモデルが国王夫妻ということなら、ベラスケスやキャンバスとの位置関係も矛盾なく収まることになる。

 

 

ところで、この国王夫妻を鏡に映すという工夫が、この絵の価値を一層高らしめたとされる。鏡に映ることによってその存在が間接的に示される国王夫妻だが、彼らがどこにいるかと考えると、鏡の正面、つまり、いまこの絵を見ている人の立ち位置そのものである。そのことに気づくと鑑賞者はにわかに国王夫妻と重なり、画中の登場人物の一人と化す。国王夫妻に視線を送っているベラスケスや会釈している右側の侍女らは、すなわち、あなた自身を見つめていることになり、《ラス・メニーナス》の絵画世界と現実世界が混淆し、両者の境界が曖昧となる。その不思議な感覚こそが《ラス・メニーナス》の特異性で、パロミーノに「これは絵ではない。真実である」といわしめ、ゴーティエに「絵はどこから始まるのだ!?」と驚嘆せしめたものの正体である。ベラスケスが本作をほぼ等身大で描いた理由もそこにある。クラシック絵画の衣をまとっているが、もはや表現しているものは現代アートと変わるところがない。驚くべき先進性である。

 

 

ラス・メニーナス02.png

 

 

私が本作と初めて対面したのは、1997年3月21日のことだった。そのときも大勢の人たちに取り囲まれていたが、欧米人と見える人のなかには、手鏡を持ち、絵に対してうしろ向きに立ち、鏡に映して絵を見るという奇妙な見方をしている人が何人もいた。彼らは上記のメカニズムを逆利用して見ることを試みていたのだろう。

 

 

ともあれ、「国王夫妻説」に基づけばベラスケスの向いている方向には納得できるのだが、「国王夫妻説」にも具合の悪い点がある。まず、国王夫妻が描かれているのならば、ではいったい、いまのこの状況は何なのか、ということがある。モデルとなっている夫妻の前にマルガリータがだだをこねて立っている。周りの侍女は彼女のご機嫌をとろうと懸命である。右側には道化の矮人マリ・バルボラや犬を蹴飛ばしている子どもなど、国王夫妻の肖像が描かれている場としては不自然きわまりない。国王夫妻の肖像画制作にどうして道化が要るというのか。

 

 

また、国王夫妻の肖像画制作現場だとすると、当然、主役は国王夫妻でなければならない。だが、ここでは二人はわずかに鏡にぼんやりと映っているにすぎない。主役どころか脇役にすらなっておらず、そんなおかしな話はありえず、ベラスケスの意図は不可解千万といわざるをえなくなる。

 

 

さらに、この絵の世界では光がどちらから射しているかというと、画面の右手前上からである。そのためにマルガリータは明るい順光に照らし出されて輝きを放っているのだが、ということは、ベラスケスの側から国王夫妻を見ると、彼らは逆光の位置にいることになる。二人の顔は眩しい逆光に阻まれ、ベラスケスにはよく見えないに違いない。肖像画を描こうとしているのに、わざわざそんなポジションにモデルを置くというのも不合理な話ではないか。

 

 

このように、「国王夫妻説」に立てばベラスケスとモデルの位置関係の矛盾は解消されるが、こんどは他の要因が矛盾し始めて、やはりしっくりこないものが残るのである。《ラス・メニーナス》という絵はややこしい(もっとも、それが魅力でもあるわけだが)。美術の専門家たちが長年頭を悩ませ続けてきたのもむべなるかな、だ。ほかにも、本作全体がじつは鏡に映った虚像なのだといったアクロバティックな解釈がひねり出されたりもしたが、それでもいまだにすべてを矛盾なく説明できる解は見出されていないのが実情である。

 

 

そんななか、一つの興味深いアイデアと出合った。それは、大学の授業で本作を取り上げたとき、一人の学生がいい出した解釈である。T君は、「マルガリータ王女説」と「国王夫妻説」のどちらも違うというのである。では、どのように考えればいいかというと、T君にいわせれば、「国王家族説」が妥当だという。彼のいうところの「国王家族説」とは、いまベラスケスが描いているのは、マルガリータだけでもなければ、国王夫妻だけでもなく、国王夫妻とマルガリータを合わせた国王の家族まるごとだ、というものである。

 

 

どうして、そう考えるのか。まず、マルガリータがむずかっているのは、左側の侍女がご機嫌を取ろうとしているありさまから間違いない。なぜマルガリータがむずかっているかというと、それはやはり、「マルガリータ王女説」の指摘するように、長時間モデルを務めて疲れてきているから、と考えるのが合理的である。また、マルガリータが絵のモデルになっていることは、彼女の服装からも見て取れる。まるでよそゆきのように着飾っており、これはまさに絵に描いてもらうためであろう。

 

 

だが、「マルガリータ王女説」と異なるのは、マルガリータの立ち位置に関してである。T君は、マルガリータはもともと国王夫妻とともに絵のこちら側に並んで立っていたと推理する。というのは、そう考えればベラスケスとの位置関係が説明つくだけでなく、道化が向き合うように立っているのも理解できるからである。国王夫妻を描くだけなら不要なはずの道化も、絵のモデルにマルガリータもいたとなれば、彼女をあやすためにその場にいて何の不思議もない。しかも、道化はこちら側と向き合うように立っている。それはマルガリータがこちら側にいたからである。そして、長時間のモデルに飽きたマルガリータは、両親と並んでいた場所から二歩三歩と前へ踏み出し、「もう、イヤイヤ」とだだをこねているのだ——というのがT君の推論である。ベラスケスは王女のありさまに一旦筆を止め、やや離れて絵の出来栄えを確認しているところだと考えれば、キャンバスとベラスケスの距離もおかしくない。

 

 

マルガリータが当初は両親とともに絵のこちら側にいたとする解釈は、私はこれまでに読んだことがない。非常にオリジナリティのある発想である。T君の説く「国王家族説」に立つと、たしかに多くの矛盾が解消される。ベラスケスとの位置関係は合理的になるし、国王家族が描かれているなかでも、主役はマルガリータだとすれば、この場のありさまにも納得できる。道化が呼び出されているのも説明がつくし、ベラスケスが手を休めていることもうまく物語にはめ込める。正直、よく考えついたものだと感心する。唯一、光の向きとの関係にだけ矛盾が残るぐらいだが、それも主役のマルガリータを引き立てるための方便と捉えれば納得できないことはない。

 

 

さてさて、ここまで読んでくださった方は、どうお考えになるだろうか。学生が思いついた解釈とはいえ、私はけっこういい線をいっているのではないかと思うのだが、いかがだろうか。ともあれ、あれこれと詮索できること自体、《ラス・メニーナス》が名画たる理由のように思える。