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アート鑑賞ナビゲーター藤田令伊のブログ形式のメディアです。
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マーティン・スコセッシ 『沈黙−サイレンス−』
ブログ

遠藤周作原作、マーティン・スコセッシ監督の映画『沈黙』が話題になっている。そもそも、この日本の小説がスコセッシという外国人監督によって暦年の念願として映画化された事実が一つの快挙だといえるだろう。日本人として誇らしい気持ちが湧いてくる。

 

(以下、ネタバレあります。ご注意ください)

 

どちらかといえば全編を通じて淡々とした演出がなされており、過剰にエモーショナルのものをもたらさないよう留意されていたかと思う。映画は原作に忠実という評判で、抑えめのテイストも原作にのっとってということだろう(個人的にはもう少しエモーショナルな部分に訴えてくる演出があってもよかったとも思ったが)。が、テイストの話は小さなことで、私が本作に何にせよもっとも強い印象を受けたのはラストシーンだった。本作は、制作されたこと自体がすごいと思うし、基本的に評価もしたいのだが、ラストシーンには「これでいいのか?」という違和感が残ったのだ。

 

 

ラスト、棺桶のなかにうずくまったロドリゴの死体が映し出される。視線は顔から腕へと移ってゆき、ついにはロドリゴの掌のなかに小さな十字架が握られていたことが明らかにされ、映画は終わる。このラストシーンを見たら、おそらくほとんどの人は、表面的には棄教したロドリゴだったが心の底では決してカトリックを捨ててはいなかったのだ、というふうに解釈することだろう(それはロドリゴの師フェレイラにおいても同じで、ふとした言葉の端に捨て切ってはいないカトリック信仰を垣間見させる)。

 

 

しかし、この描き方はどうだったのだろうか。原作でもたしかにロドリゴは最期まで信仰を捨ててはいなかったことが示されている。だが、その信仰とはカトリックへの信仰だったのかと問われれば、私は違うものだと思う。むしろ、信仰のためなら人々がどれほどの拷問を受けて苦しみ殉教していっても美談としてすませる教会、いまこそ人々を救済すべきという時でも沈黙を守り続ける神に疑問を抱き、これほどの苦しみを人々が受けるいわれはない、そのためには踏絵でも棄教でも厭う必要はないと導いてくれる、いわばロドリゴ自身の神とでもいうものへの目覚めが原作の一つの趣旨だったと思うからだ。

 

 

それは決してカトリックへの信仰と同じではない。ロドリゴが歩んだ道は、宗教とは何か、神とは何かということを本質的に問い直す道程であったはずである。かつてカトリックの教義を教えられるがままに盲目的に信じ込んでいたロドリゴから、苛烈な経験を経て、教会の枠を超えた、もっと普遍的な、より深い愛への気づきと目覚めによって、新しいロドリゴへと生まれ変わる物語なのである(もっとも、その生まれ変わりとてきれいに整理されたものではなかったろうが)。でなければ、ただ単にどこまでもカトリックの信仰を捨てなかったというだけの話では単純で陳腐にすぎよう。

 

 

ロドリゴとつかず離れず、全編に顔を覗かせる存在としてキチジローが描かれる。キチジローという登場人物も重要である。キチジローは役人から踏絵を迫られると踏んでしまう弱い人間である。殉教する勇気はなく、かといって、踏絵を踏んでしまったことにもいつまでもじくじくと苛まれる、信念を貫き通すことのできない者である。そんなキチジローに当初ロドリゴは卑怯者の姿を見、嫌悪を抱く。けれども、キチジローのありさまは凡人のそれであり、一種偽りのない人間の姿である。人間が生きていく現実と信仰や信念との狭間に生じる葛藤や苦悩、そしてそれらによって容易には割り切ることのできない心情を体現するのがキチジローなのだ。

 

 

キチジローはどこまで行っても人間から決して拭い去ることのできない弱さや煩悩、悔悟、欲心、誠実、真心といったものをごっちゃにして持っている。それは私たちの写し絵であり、キチジローは私なのである。この物語においてはキチジローこそがヒドゥン・テーマだといっても過言ではない。あるいはまた、この『沈黙』という小説自体が、母親のような「敬虔なキリスト教徒」足りえなかった遠藤周作自身の(キチジローが行うような)告解の書だという人もいる。私もそう思う。

 

 

いうまでもなく、この物語にはさまざまなテーマが含まれている。宗教、信仰、神の存在(もしくは不存在)、信念、正義、あるいは異文化接触などなど。人はあらゆる局面で試され、選択を求められ、決断を迫られる。そのとき解を導き出すのは単純な理屈ではすまないし、人は理屈に殉じて生きる強さを常に持ち合わせているとは限らない。理屈に殉じることが正しいとも限らない。白と黒、清と濁、理想と現実、強さと弱さ、善と悪、いろいろな両極のあいだにある無限のグラデーションのなかの1点をそのときその場に応じて何とか選び出しているのである。私にとって、あなたにとって、それが偽らざるありさまだろう。そしてそれはキチジローの姿と何ら変わるところはない。

 

 

そのようなキチジローをロドリゴはついには受容する(私の解釈では)。ロドリゴが岡田三右衛門に帰化(?)してからも、どこまでもロドリゴに付き従ったのはキチジローであり、もはやロドリゴはパードレではないにもかかわらず、キチジローはロドリゴに告解を願ってすがりつき続ける。そして、ロドリゴはキチジローの告解を聞いてやるのである。それはカトリックの神父としてではなく、一人の人間としてであったろう。

 

 

ところで、この物語はフィクションだが、岡田(岡本)三右衛門という人物は実在する。また、フェレイラの沢野忠庵も実在する。そして、驚くことに沢野忠庵は映画のなかと同様に、実際に『顕偽録』を書いているのである。その心の背景や奥底まで迫ろうとした研究もある。小岸昭著『隠れユダヤ教徒と隠れキリシタン』(人文書院)の第四章「棄教者沢野忠庵の『マラーノ性』」において詳述されているので、関心のある方は一読されるとよいと思う。

 

 

それから本作は、いわゆる隠れキリシタンと一般に呼ばれる人たちの姿が描かれているが、隠れキリシタンに関してもさまざま考えさせられるものがある。機会があれば触れてみたいと思う。