CALENDAR
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
282930    
<< June 2020 >>
PROFILE
LINKS
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
amazon1
amazon2
amazon3
amazon4
ARCHIVES
MOBILE
qrcode
OTHERS

ARTRAY

アート鑑賞ナビゲーター藤田令伊のブログ形式のメディアです。
展覧会レビュー、アート鑑賞のヒント、アートニュースなどアートに関する
effectiveな情報を発信しています。アート以外についてもときどき書きます。
<< 香月泰男と丸木位里・俊、そして川田喜久治 | main | マーティン・スコセッシ 『沈黙−サイレンス−』 >>
大学非常勤講師という身分
ブログ

私はいま大学の非常勤講師という身分でもある。大学でほかの教員たちに混じって「アート鑑賞を通じての成長」をテーマに日々取り組んでいるつもりである。だが、非常勤講師という身分はそこに何かと微妙なものを考えさせる。

 

学生の側からすると、そうといわれなければ、教壇に立っている教員が非常勤か専任かはわからないだろう。非常勤であろうが専任であろうが、彼らにとっては「〇〇先生」「◇◇先生」で変わるところはない。授業をしてくれて、成績をつけられるという存在に違いはない。実際、彼らは教壇に立っている人間が非常勤か専任か、おそらくほとんど拘泥していない。

 

 

一方、では教員側はどうかといえば、事情はちょっと違う。同じように教壇に立ち、同じように授業をしていても、非常勤と専任のあいだには画然たる一線がある。一般企業でいえば正社員と非正規雇用。絶対的な身分差である。加えて、専任教員が上、非常勤教員は下という暗黙の了解が一般的に存在しているようだ。私自身は専任と非常勤の違いは上下の違いというよりは役割の違いと捉えているのだが、大学という世界ではどうもそうは捉えられていないふしがある。

 

 

それは待遇の差として現れている。専任教員の平均的な給料がどれくらいなのか具体的な金額は知らないが、まあ、大学の専任教員ということになれば、それなりの給料が出ているには違いないだろう。非常勤はどうかといえば、おそらく、世間一般が想像するよりはるかに低い。私の場合、著述業という本業があったうえでの大学非常勤なので、それで食っていくことができているが、大学非常勤だけで食べていこうとすると、そのハードルはきわめて高くなるだろう。おそらく、最低週8〜10コマは授業を担当しなければならないのではないか。

 

 

もっとも、週8〜10コマぐらいの授業数は専任であれば特段に驚くような数字ではない。それぐらいを担当している専任教員はいくらでもいる。つまり、専業の非常勤と専任教員のあいだで受け持ち授業数に大差はない。しかし、給料には大きな開きがある。もちろん、専任はただ授業をしているだけではなく、さまざまな校務があり、ゼミを持ち、学生たちに対する責任も重い。就活の面倒も見なければならない。また、最近よく同一労働同一賃金がいわれるが、私はそこまで両者に同一レベルの賃金を支払えとまでいうつもりはない。それでも専任教員と非常勤教員の賃金格差は大きすぎると思う。

 

 

この秋学期、私は新しい授業を展開しているので、毎コマの準備にかなりの手間とヒマがかかっている。一コマ90分の授業をするために事前に(直接的な作業だけで)どうしても10時間以上の準備が必要となる。授業自体が1.5時間、準備が10時間、通勤時間が往復で3時間とすると、一コマ当たり14.5時間を費やしている計算になる。加えて、学生たちの成績策定に必要な時間も加味すると、15〜16時間はかかる。その時間で一コマ当たりの給料を割ると、いわゆる時給が出る。「やれやれ」といいたくなる数字である。私が頂戴している給料は私だけが低いのではない。また、私が属している大学だけが低いのでもない。非常勤のごく一般的な賃金レベルと思われる。非常勤の給料は、同一賃金とまではいわずとも、もう少し増やすべきである。でなければ、非常勤講師のモチベーションに悪影響を及ぼし、ひいてはその大学のクオリティ低下につながりかねない。それでもっともワリを食うのは学生たちである。

 

 

もし、専任と非常勤のあいだに絶対的な力量差があるのならば大きな賃金格差も致し方ないかもしれない。しかし、現実にはそんな差はない。いまたいていの大学では学生による授業アンケート評価が実施されているが、私が勤務している大学のアンケート結果を見ると、専任による授業と非常勤による授業とのあいだで学生たちの評価差はない。どちらも同レベルの授業がなされていると学生たちは見ている。自慢ではないが、私の授業に対する学生たちの評価は、1000コマ以上授業があるなかでだいたい毎年度トップ10に入っている。学科内ではトップを争っている。非常勤講師たちはみな大変真面目に授業をしているのである。

 

 

現在、多くの大学では非常勤講師を増やす方向にある。実際にあったケースだが、ほぼすべての学部で半分以上の専任を切り、そっくり非常勤に入れ替えるという驚くべきことをした大学がある。また、これは未確認情報だが、某有名私立大学では7割もの教員が非常勤だという話を聞いたことがある。大学側の狙いは、いうまでもなく、人件費の抑制であろう。非正規雇用の波は大学にも及んでいることになる。

 

 

大学側の言い分としては、専任と非常勤の力量差がないのだったらそれでいいではないか、ということになるのかもしれない。だが、私は自身が非常勤ではあるが、非常勤が多くなりすぎるのは好ましくないと思う。それは学生たちへのコミットメントの問題があるからだ。非常勤と専任とでは、たとえ実施している授業に差はなくても、学生たちとのかかわりという点で大きな違いがある。専任はより深く学生たちとかかわり、非常勤はその授業だけでのかかわりに留まるのがふつうだ。これは表面的な数字には現れないことだが、大学という場においてはかなり重要な問題をはらんでいる。

 

 

学生とかかわるのは楽しいことである一方、煩わしさが付きまとう面もある。私自身はどちらかといえば、非常勤としては学生とかかわっているほうだと思う。それはそうしたいからそうしているだけのことだが、それでも面倒臭く感じるときがないわけではない。以前、有志の学生たちと美術館へ出かけたことがある。その美術館のご厚意で課外授業として招待してくれたのである。ところが、美術館へ出かけるにあたって、参加者を確認したり、日時を調整したり、待ち合わせ場所を確認したりといった周辺雑務でけっこうな目に遭った。学生たちのレスポンスは鈍く、何度も返信を催促させられたり、打ち合わせをやり直さねばならなかったり、当日も約束通りに現れなかったりで、正直、かなり疲れた。心のどこかで「なんで非常勤なのにこんなことまでやっているんだ?」という声がないではなかった。

 

 

あるいは、ある学生から「大学を辞めようかと思っている」と打ち明けられたことがある。事情を聞き、できるだけ親身に相談に乗り、私にできるアドバイスをするしかなかったが、そのとき非常勤という身分を厄介に感じた。大学を辞めるかどうかという大きくデリケートな問題に対して、はたして自分はどれくらい関与していいのだろうかと戸惑ったのだ。ヘタなことしたら責任を取れないことである。そのような問題に非常勤の自分がどうかかわればいいのか。そのときは、ゼミの先生とも相談させるようにし、ゼミの先生ともどもで学生と向き合い、結局、学生は大学を辞めず、いま元気に通ってくれている。まずはハッピーエンドになったわけだが、いつもそうなるとは限らない。

 

 

非常勤の限界がそこにある。非常勤という身分であるがゆえに、どうしても学生たちとのコミットメントにおいて微妙なものがついて回り、あるところで一線を引いてしまうのである。そこまでは責任を負えない、そこまでは給料と見合わない、という意識がどうしてもつきまとう。つきまとわざるを得ない。そして、学生とのあいだに引かれる一線は、間違いなく専任教員よりは浅い。

 

 

このことは、学生にとっては授業の場合とは違って大きな影響がある。もし、大半の教員が非常勤になったら、学生たちの心の行き場は激減するだろう。悩みを相談することも、特別な用事がなくとも雑談することも、機会そのものを見出せなくなる。学生はますます大学とのつながりを感じられなくなり、大学のなかに居場所を見出せず、途中で挫折する者が激増するかもしれない。大学教育をコストでしか捉えていないと、大学は空疎化すると私は危惧する。

 

 

しかしながら、少子化が激しく進む現代である。たとえいますぐ実効的な対策が打たれて少子化に歯止めがかかったとしても、新たに生まれてくる子どもたちが大学へ行く年齢になるまでには時間がかかる。大学はそれまで持ちこたえなければならないとすれば、経営環境は茨の道だ。人件費などのコストも減らせるところは減らしたいと考えるのは当然の成り行きというほかない。一方では非常勤の給料を上げるべきであり、非常勤を増やしすぎるべきではないと思う。他方、現状すでに厳しい大学の経営状況もわかる。教育のクオリティという面ではコストはより多く求められ、経営的側面からはコストをむしろ減らしたいということになる。完全なトレードオフ。大学の進むべき道筋はきわめて難しい。

 

 

コスト面がトレードオフの関係で難しいのならば、インカムを増やすしかない。それにはまだいろいろな手立てがあるように思う。さまざまな方法論があると思うが、ベースとなるのは、やはり質の高い教育で評判になるという図式になってほしい。そんな簡単なことではないだろうが、大学が人間を育成する場であるのなら、そこが基本であるべきだと考える。そう考えると、そのために必要なコストはかけるべきであり、長い目で見たら、そのほうが好ましい結果につながるのではないかと思うのだがどうだろうか。

 

 

いきなり手前みそになるが、その点、私が勤務している大学はいい大学だと思う(私のかかわっている範囲に限られるのかもしれないが)。あまり巨大ではないので、教員と学生の距離が近く、学生一人ひとりの顔が教員にちゃんと認識されているような学校である。そういえば、たまたまだが、先日、有志の学生たちが「藤田先生を囲むお茶会」なるものを開いてくれた。おそらく、専任のI教授(この人の教育にかける熱意には驚嘆すべきものがある)の働きかけもあってのことだと察するが、素直に嬉しかった。一非常勤講師に対して、そのようなイベントを企画、実行してくれる風土がある学校なのである。昨今なかなかレアなことではないだろうか。

 

 

肝要なのは、大学で学生たちがより多くを学び、より好ましい変化を遂げてくれることである。その大前提をどうすればより実現できるかを探っていくほかない。