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ARTRAY

アート鑑賞ナビゲーター藤田令伊のブログ形式のメディアです。
展覧会レビュー、アート鑑賞のヒント、アートニュースなどアートに関する
effectiveな情報を発信しています。アート以外についてもときどき書きます。
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ピカソ 《ゲルニカ》
私的作品鑑賞
ピカソの代表作とされる1枚に《ゲルニカ》がある。

http://www.museoreinasofia.es/en/collection/artwork/guernica

知られる通り、この絵はスペイン・バスク地方の古都ゲルニカをドイツ(ナチス)軍が無差別爆撃したことにピカソが激しく憤り、これを糾弾するために描いたものとされている。そのため、《ゲルニカ》は平和を希求し、反戦を訴えるシンボルとして扱われるようになり、国連本部には同じ図柄のタピスリーが展示されている。

私は実物をマドリードのソフィア王妃芸術センターで見たことがある。単なる芸術作品を超えた歴史的名作とついに邂逅した瞬間だったわけだが、非難ごうごうを覚悟してそのときの正直な感想を告白すると、私はそのようなことはほとんど何も感じなかったのである。 巨大なモノクロの画面にはさまざまなモチーフが幾何学的に描かれている。いななく馬や存在感のある牛、両手を挙げて叫んでいるらしい人物などが重層的に配されている。


巨大な画面はたしかに迫力はあるけれど、個々のモチーフが奇妙に幾何学的に抽象化されているため迫真性は感じられず、そうといわれなければとても戦争の悲劇をテーマにした絵とは思われなかった。いくら時間をかけて見ても同じことで、戦争の悲惨さを痛感するとかゲルニカの苦しみに胸が痛むといったことはついぞ私には起こらなかった。私は「これが名高いピカソの傑作なのか?」と肩透かしを食らった気持ちを抱きつつ、ソフィア王妃芸術センターをあとにしたのだった。


後日、ネットで《ゲルニカ》を見た人たちの感想を探して私は驚いた。多くの人々の感想が私のそれとはまったく違っていたからだった。「あまりにも強烈な地獄絵に犠牲者の魂を慰めずにはいられなかった」とか「絵を目の当たりにして立っていることができなくなった」「涙がとめどなくあふれでた」などとあった。信じられなかった。と同時に、自分はあまりにもズレているのではないかという危惧も覚えた。自分の感受性は世間一般と比べて著しく劣っているのではないかと心痛したのだ。以来、私は《ゲルニカ》に対する自分の感想を秘匿してきた。《ゲルニカ》は私にとって一種のトラウマになってしまったのである。


ところが、最近『絵画で読む死の哲学』(佐渡谷重信著、講談社学術文庫)という本を読んでいて、わが長年のトラウマに一条の光明が射す思いを得た。その本でも《ゲルニカ》が取り上げられているのだが、《ゲルニカ》は反戦絵画などではなく、牛がフランコまたはドイツ軍の空襲を象徴し、馬が弱者としての市民を象徴しているといった見方は単純にすぎないとバッサリ斬って捨てているのである。 ずいぶん大胆なことを書いているなぁと思いつつも、何となく私は同志を得たような気がした。


著者によると、ピカソは《ゲルニカ》制作のために何枚もの習作を描いているが、それらの習作には空爆の惨状をスケッチしたようなものは1枚もなく、徹頭徹尾、牛や馬、女のデフォルメしか描かれていないという。しかも、女の顔はピカソの恋人マリー=テレーズであり、そこに現れているのはピカソの正妻オルガとの闘争の苦悩としか思われないというのだ。そもそも当時パリにいたピカソにどうしてゲルニカ市民の恐怖と絶望が理解できようかとまで指摘している。


著者は、ピカソがゲルニカ爆撃に怒りを覚えたとしても、《ゲルニカ》で表現しているのはあくまでも個人的な人生哲学であり、反戦のスローガンを叫んでいるのではないとしている。それが証拠に、フランコがスペイン全土を制圧し、自らが国家元首の座に就くことを宣言したとき、ピカソはそのような動きには何ら関心を示さず、新しい恋人ドラ・マールとの生活に熱中するばかりだったではないかと主張するのである。


この議論は私にとって「眼ウロコ」だった。《ゲルニカ》が反戦平和のシンボルだとするのは美しい話だし、作品の社会的価値を増幅するものでもある。にもかかわらず、それにはどこか造花のようなウソっぽさがついて回り、話の美しさとは裏腹に真実からは離れていくような感じが拭えなかった私にはピンとくるものがあった。そんなものではなく、ほんとうはどこまでもピカソの個人的想いが人間臭く発露したものだとするほうが、私にも納得できるものがあったのである。


この言説を知って、長いあいだ眼の上のたんこぶだった《ゲルニカ》とようやく素直な気持ちで向き合うことができるようになった気がしている。ゲルニカという題材を引いている以上、ナチスへの告発はあるにはあったのだろうが、もし、純粋にそのような動機で描かれていたら、この絵はもっと違ったものになっていたのではないかと思う。ここには爆撃機らしきものもドイツ軍らしきものも何もない。あるのは、牛と馬と苦悩する人だけである。それらは私にはきわめて個人的なものに見える。


《ゲルニカ》という、もはや美術界におけるエスタブリッシュメントといっても過言ではない作品を相手にずいぶん乱暴な議論をしてしまったかもしれないが、上記が私の偽らざる鑑賞なのである。あなたはどう思うだろうか?