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ARTRAY

アート鑑賞ナビゲーター藤田令伊のブログ形式のメディアです。
展覧会レビュー、アート鑑賞のヒント、アートニュースなどアートに関する
effectiveな情報を発信しています。アート以外についてもときどき書きます。
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NO MUSEUM, NO LIFE? これからの美術館事典
私的展覧会レビュー
2015.6.16〜9.13:東京国立近代美術館


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わが国の国立の美術館は独立行政法人国立美術館という組織に属しています。現在、東京国立近代美術館、京都国立近代美術館、国立西洋美術館、国立国際美術館、国立新美術館の5館があります。本展は、独立行政法人国立美術館が発足して15年目を迎えたのを記念して5館が協力して開いたものです。各館の所蔵作品を出し合って展覧会が構成されています。


テーマは展覧会名からわかるように「美術館」そのものです。これからの美術館のあり方を改めて考えてみようという趣旨で、主催者からは美術館が人々にもっと親しまれるものとなるよう「コレクションの存在を知っていただくとともに、もっと多様な鑑賞機会の提供に努めてまいります」というメッセージが挨拶かたがた発信されています。


こういう企画が出てくるのはよくわかります。近年のアートの動向は「脱美術館」がトレンドだからです。「美術館でアートを見るのはもう古い」とばかりに、昨今は美術館以外でのアート活動が目立っています。オフィス街でアートのイベントが実施されたり、アートと縁のなかったような田舎町で大々的なアートプロジェクトが企画されたりなど、各地でアートの「脱美術館」化が進められているのです。こうした先鋭的な動向は、2000年にスタートした「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」の成功が原動力と見られています。「脱美術館」的活動に携わっている人のなかには「美術館なんかもう要らない」と公言する人もいて、美術館は片隅へと押いやられている感があります。


というように、いまわが国では「脱美術館」が支配的あるいはカッティングエッジなムードです。しかし、私はこのムードに疑問を抱いています。美術館以外でのアート活動そのものは、それはそれでけっこうなことだと思うのですが、かといって美術館が否定されるいわれはないのではないかという疑問です。新しい動向が出てきても、新しい動向もこれまでの動向もどちらも享受すればよいだけの話です。アートはそんなに間口の狭いものではないはずです。


それに、これまで私たちは数々の美術館をつくり、維持発展させてきました。それらを不要とすると、これまでの活動は何だったのだ?という話にならないでしょうか。「美術館はもう要らない」といえば、耳目を引く発言かもしれませんが、公立の美術館であればこれまで投入された税金は無に帰してしまうことになり、いくら飽きっぽくて新しいもの好きな国民性だとしても、「それはないんじゃない!?」と私などは思うのですがどうでしょうか。美術館不要論者も深く考えてというよりムード的に発言している程度に思えてなりません。


そんな背景がありますから、本展の企画意図はよくわかるのです。いわば、美術館の逆襲です。この企画を知ってから、私は本展の開催を楽しみにしてきました。展示は「美術館事典」と銘打たれているように、事典のスタイルにしつらえられていました。


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会場の様子。各コーナーには“インデックス”がつけられています。右下の壁を覗いている人も作品です


「事典」らしくAからZまでコーナーを設け、Aのコーナーなら「Artist(アーティスト)」とか「Archive(アーカイヴ)」というようにAで始まるいくつかのキーワードをサブテーマにして、それに当てはまる作品を展示するという趣向です。なかなか凝っています。ギャラリーはいつもとは違う空気ですし、見慣れたはずの作品でも違って見えてくるものがある感じがしました。


と語ると、満足感が高いように思われるかもしれませんが、残念ながら、楽しみにし期待していたにもかかわらず、私が本展に覚えたものは失望でした。それは、企画者自身が企画意図をちゃんと理解しているのだろうかと疑いを感じざるをえなかったからです。たとえば、本展の図録(これも事典スタイルになっていて、体裁は面白いのですが)の冒頭に「ユーザーズガイドに代えて」という文章が掲載されています。その本文書き出しは次のようなものです。

「ダグラス・クリンプによる『美術館の廃墟に』のように、テオドール・アドルノの言葉からはじめれば〜」

私は早この時点で「これはダメだ」と溜息をつきました。ダグラス・クリンプだの、『美術館の廃墟に』だの、テオドール・アドルノだのをいきなり持ち出して、いったい書き手はどういうつもりなのか、展覧会の意図がわかっているのか、と。こんな文章は書き手の気取り以外の何ものでもなく、「自分にはこんなに教養があって、こんな文章だって書けるんだぞ」という自意識ばかりが鼻につきます。愚劣です。


本展は、美術館というものを改めて広く親しんでもらおうという趣旨のはずです。ところが、図録の冒頭がこれでは広く親しんでもらいようがないではありませんか。ほんとうに心底から多くの人々に愛してもらいたいと願っていたら、このような文章には決してならなかったはずです。いかにいっていることが口先だけかが現れているといわざるをえません。書いた人も書いた人ならチェックした人もチェックした人です。結局、独立行政法人国立美術館という組織全体の意識が低いということになるでしょう。


展覧会にもそうしたつまらない自意識が見え隠れしました。たとえば、Bのコーナーに「Beholder」というキーワードが設定されていました。何のことかおわかりになるでしょうか? たぶん、ほとんどの人はわからないと思います。では、これを「Viewer」と言い換えてみたらどうでしょう? きっと「ああ、見る人のことか」とおわかりになることでしょう。「Beholder」とは「見る人」のことです(厳密には少し違うニュアンスがありますが)。「見る人」つまり私たち観客のことがテーマとして取り上げられているのですが、それをポピュラーな「Viewer」などとはせず、わざわざわかりにくい用語にしているのです。こういうものも発信側の独りよがりというほかなく、観客といいつつ観客のことなど二の次にしているインテリの鼻持ちならなさを感じてしまいます(厳しいでしょうか?)。


もう少しあえて突っ込ませてもらうと、「Beholder」は一般には少々古めかしい詩で使うような言葉で、美術関係では美術史学で使われることが多いものです。「他の要素は排して純粋に美術作品を見る行為のこと」という観念上の意味合いがあります。ちょっと特異なニュアンスで、アートスケープの用語解説には「多くの観客が訪れる展覧会場といった現実の公共的空間では成立しにくく、そうした点についてこの語が伴う理念的な操作、限界には留意が必要」とあります。つまり、現実の観客とは隔絶されたところでの「見る人」という意味であり、わざわざそんな言葉を「観客の皆さまに美術館を知っていただく機会」(「ごあいさつ」より)にどうして使うのだろうかと疑問を覚えてしまうわけです。


とまあ、私のように細かいところにじくじくこだわる人はあまりいないかもしれませんが、こうしたところに企画側の一種の高慢さや企画趣旨に対する企画者自身の理解不足を嗅ぎ取り反感を覚えてしまったのは事実なのです。ついでにいえば、巡回展はなく、東京開催のみというのもどうかと思いました。まことに残念です。なお、個別には興味深い作品があったことは付け加えておきたいと思います。


★★


※展覧会レビューについて
展覧会レビューは、筆者である私、藤田令伊の価値観と感性で記しているものです。したがって、「正解」とか「模範解答」を狙ったものではありません。お読みくださる方には「世の中にはこういう見方もあるのか」ぐらいに、あくまでも参考としてご覧いただければと思います。また、筆者の見方に固定されず、おのおのの見方を展開されることを願っています。