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ARTRAY

アート鑑賞ナビゲーター藤田令伊のブログ形式のメディアです。
展覧会レビュー、アート鑑賞のヒント、アートニュースなどアートに関する
effectiveな情報を発信しています。アート以外についてもときどき書きます。
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藤田嗣治 《パリ風景》
私的作品鑑賞
20150212_154704.jpg
1918 東京国立近代美術館

(まず、画像のクオリティが悪いことをお詫びしておきたい。この画像は私が自分で美術館で撮影したもので、作品保護のためにはめられているガラスにどうしても反射が映り込んでしまい、これで精一杯だったのだ)


私はときどき常設展を見に行く。日本では企画展に比べて常設展は概して不人気で、どこの美術館でもたいていは閑古鳥が鳴いている。が、身勝手なことをいわせてもらえば、作品を見る環境としては静かでこのうえない。ほかの人に気兼ねする必要なしに、心ゆくまで自分のペースで見て回ることができる。引っかかりを覚えた作品があれば、じっくり向かい合って自分がどこにいるのかわからなくなるくらい没入することができる。そういう非日常感がまたよい。こういうことは企画展ではなかなか望めない。私はもっと常設展が見に行かれていいのではないかと思う。常設展示のなかにお気に入りを見出すことができれば、その作品は友として長きにわたってつき合ってくれることでもあるし。


さて、この日は東京国立近代美術館の常設展を見に行った。神保町で編集者と打ち合わせをしたあと、時間が余ったので、ふと思いついて出かけた。神保町から竹橋までは歩いてもしれている。「MOMATコレクション」と銘打たれた東京国立近代美術館の常設展の大きなメリットは、ほとんどの作品が撮影可能になっていることだ。撮影した写真の商用利用は禁じられているが、そうでなければ、お気に入りの作品をスマホや携帯でパシャッ!と撮って持ち帰れる。ありがたい規定である。


美術館の4Fから2Fまでを使って展開される常設展を見て回るうち、足が止まったのがこの作品だった。藤田嗣治作《パリ風景》。独特の乳白色で知られるフジタの絵とは趣を異にしている。物寂しく、侘しい。藤田は当時のパリで大きな成功を収めることができた数少ない日本人画家だが、初めからうまくいっていたわけではない。例の乳白色を編み出すまでには極貧といってもよい生活を強いられた時期がある。絵を燃やして暖をとったことさえあったという。この絵は藤田がまだ成功をつかむ前に描かれた1枚である。


「華の都」と呼ばれる街とはとても思えない地味な場末が題材だ。色彩はグレーのモノトーン。逆S字を描いて1本の道路が画面奥から手前に伸び、画家のすぐ近くで広場のような交差点となっている。しかし、道路には1台の車もない。車の走っていない車道を一人の老婆とおぼしき人影が小さな手押し車を押して歩いている。車がこないので道の真ん中を平気で通っている。また、画面の中ほどやや右よりには歩道を歩いている人影。背中を丸め、向こうにむかっているらしい。男のようである。遠景には工場などの建物が幾何学的な形態で小さく建ち並び、遠景と近景を分け隔てるように鉄道が横一文字に走っている。機関車が煙を吐きながら左に向かって短い列車を牽引して去ろうとしているところだ。


逆S字の道の右側は空堀のような小さな谷筋になっており、谷の向こう側に城壁らしきものの一部が見えている。道路がずいぶん広く描かれていて、絵の3〜4割ぐらいも占めているだろうか。画面のもっとも目立つあたりが何もない道というヴォイド(空白)になっていることによって、この絵の空漠とした雰囲気がかもし出されている。加えて、見るからに孤独な一人の老婆がそこに置かれることで、寂寥感がなお増している。


決して華のある絵ではないし、技術的にとくに秀でているというわけでもなさそうなのに、妙に心惹かれるものを覚えた。ベタな見方をすれば、当時の藤田の心象がそのまま現れているような気がした。文化の中心地にあって一人花咲けずにいる、孤独な自分。はるか異国から夢を抱いてやってきた若者の前に立ちはだかった厳しい現実。若き藤田の眼に映ったパリは、かくも寥々たる世界だったのだろうか、と生気のない画面を見て思う。


だが、実際には必ずしもそうではなかったかもしれない。というのは、本作が描かれた1918年という年代は制作点数が急増している時期だからだ。藤田は1913年8月にパリへ移っているが、その年に描いた作品点数はわずか17点だった。翌14年が18点、15年が16点、16年も8点という具合に超寡作といってもいい状況が続いた(林洋子『藤田嗣治 作品をひらく』名古屋大学出版会)。ところが、17年になると一転して122点と制作点数が急増し、18年も137点とハイペースを維持している。制作点数の推移からは、むしろ藤田の旺盛な意欲の湧き上がりがうかがわれるのだ。


この変化をもたらした最大の要因はフェルナンド・バレーとの結婚だった。モンパルナスで知り合ったフランス人画家バレーと暮らし始めたことによって、藤田は異郷の地に馴染んでいくことができたものと思われる。経済的にも安定を得たことだろう。制作点数の急増はバレーとの結婚による暮らしの良化が寄与したに違いない。ただし、そうなると腑に落ちないのが本作の表現である。ここに新婚早々の華やぎを見出すことはできない。むしろ正反対といっていいくらい寂しく薄暗い画面になっている。「状況」と「表現」のあいだには矛盾があり、ちょっとした謎である。藤田はこの頃、ほとんど文字資料を残しておらず、当時の画家の内面を推し量るのは難しいが、髪結いの亭主が如き、内心忸怩たる心持ちでもあったのだろうか。それとも当人はこの絵を寂しいとも暗いとも思っていなかったのだろうか。周辺情報を交えて見ると、いろいろ考えさせてくれるものがある。


いずれにせよ、この絵には飾るところのない素の藤田が出ているように私には見える。藤田嗣治の絵といえば、独自の乳白色で艶っぽく描かれたデカダンでゴージャスな絵画というのが一般的なイメージだが、そこにはどこかしら“演出”があったのではないかという気がしてならない。人々から賞賛され、作品もどんどん売れる。それゆえ、そっちの方向を掘り進んでいかなければならなかったが、その営みはほんとうの自分とは違う自分を演じ続けなければならない、名誉や成功と裏腹に本来の自分から離れていくことをせざるをえないものではなかったか、という疑惑をいつもどこかしら感じてしまうのだ。本作にはそれがない。ありのままの藤田嗣治があるように思う。思惑をもって描かれた絵ではなく、純粋な動機で描かれた藤田の絵。そんな偽りのなさに私は惹かれているような気がする。


この絵はパリの南のはずれ、ヴァンヴ門という場所で描かれている。季節は1月。いまは週末に蚤の市が開かれるこの地には、かつてパリ市街へ入るための門があり、そこでは入市税が徴収されていた。1871年、その仕事に一人の男が加わっている。その男は余暇に絵を描くことを愉しみとし、一流画家になることを夢見ていた。のちに「税官吏ルソー(ドゥアニエ・ルソー)」と呼ばれることになるアンリ・ルソーその人である。ルソーも藤田と同じようにヴァンヴ門あたりの風景を描き残している。


どちらもまだ日の目を見ていなかった藤田とルソーが、同じ場所で同じような境遇で絵を描いていたことになる。私はそこに奇縁を感じる。パリの街を描いたということでは、印象派の画家たちなどもそういえる。しかし、彼らがもっぱら新しい文化のかたちとしての都市生活を描いたのに対して、藤田やルソーは本作のようなパリの周縁を選んで描いている。華やかな中心街ではなく、誰も気に留めないような街はずればかりを。藤田とルソーとでは作風に差があるが、パリの周縁に眼を向けたという点では彼らは同じ関心を共有しており、それは珍しい眼だったのである。


藤田がパリに移住したときには、すでにルソーは亡くなっていたが、二人をつなぐ存在としてピカソがいた。ピカソを通して藤田がルソーの絵に接していたことは事実である。藤田はピカソからルソーの《ルソー夫人の肖像》を見せられ、「絵画はかくまでに自由でなければならないのだ」と感嘆したという。


本作にも「ルソー的」といっていい要素が見出される。たとえば、ここでは街灯や電柱が絵の要素としての位置を占めているが、ルソーは「電柱に眼を向けた最初の画家」といわれている。あるいは、空に浮かんでいる雲のありさまも「ルソー的」といえるだろう。藤田の表現にどれくらいの割合でルソーが浸み込んでいるのかまでは私にはわからないが、決して無関係ということはあるまい。ルソーの気配を感じつつ、藤田のこの絵が私の心にしみてくるのである。


(参考文献)林洋子『藤田嗣治 作品をひらく』(名古屋大学出版会)